女が壊れる時と、癒される時……『シークレット・サンシャイン』(2007年、韓国)

2007年 韓国
監督=イ・チャンドン 出演=チョン・ドヨン ソン・ガンホ

ここのところ、自己愛の強い(自意識過剰な)女が壊れて暴走する映画ばかり見ているような気がする。
かつて「自分探し」なんてイヤなキーワードが流行ったけれど、一度きりの自分の人生に意味を見いだし、見いだした意味と外部とのギャップに耐えられない。神なき現代において、そんな人は、日本だけではなく、韓国にもいるし、たぶん世界中にいるんだろう。

そういう時代に、映画はいかにあるべきなんだろうか。現実を直視し、シリアスドラマであれコメディ仕立てであれ、現代人特有の病のありようを観客につきつけるべきか。それとも、自己愛の強い現代の観客に「それでいいんだよ」と優しく慰めてあげるべきなのか。今年公開の『食堂かたつむり』なんて映画は、積極的に「それでいいんだよ」と言ってあげているような映画だ。ヒロインが感じる「自分と外部とのギャップ」が、魔法の料理によって「間違っている外部は、正しい自分によって直される」という解決法をとる。少し前の『明日の記憶』もまた、アルツハイマーにかかって妻に負担をかける夫が「生きていれば、そのままでいいんだ」と諭され、心の平安を得るという形で終わる。妻の犠牲は描かれても、彼女の苦しみじたいは顧みられない。そこにあるのは、癒されるべき自分だけで、他者は存在しない。
そんな、最近の邦画にありがちな優しさを、癒しとして受け入れるか、欺瞞と拒否するかは、見る側次第だと思うけれど、少なくともぼくは、前者のような映画を積極的に見たいとも思わないし、そういう映画を見て心が癒されたことはない


というわけで本作。監督のイ・チャンドンは、小説家としてスタートし、97年に『グリーン・フィッシュ』で監督デビュー。『オアシス』(2002年)でヴェネチア映画祭監督賞を受賞した。2003年からノ・ムヒョン政権の文化庁長官を務めた後の復帰第一作。他の作品はまだ見てないのだが、ドキュメンタリー映画のような淡々としたタッチで、しかし、人間の業の深さを的確にあぶり出した本作を観るだけでも、その手腕は十分に伺える。



ひとりの女が、そこにいる。


もうそろそろ40歳。結婚は遅かった。小学生の息子がいる。夫は死んだ。人が一人死ぬと、煩わしい手続きが多い。「旦那には愛人がいたんだよ」と余計なことを吹き込む無神経な奴もいる。嘘だ。あの人は私を愛していたはずだ。私は愛される価値のある女だ。

こうして、女は大都会ソウルを捨て、夫の故郷である密陽(ミリャン)にやってくる。田舎ではないが、都会でもない。商店街や公共施設はそれなりに揃っているが、特に観光資源もない平凡すぎる地方都市。でも、ここは夫が生まれた土地。夫は私を愛してくれていた。私は、愛されて当然の女。だから、この土地も私を愛してくれるはず。だから、私はここに来た。

でも、ソウルに比べて、なんて垢抜けない土地なんだろう。たまたま立ち寄った洋品店の女主人に「もっと、店内が明るくなるようなインテリアにしたほうがいいですよ」とアドバイスしてあげた。女主人は、よそ者が何を偉そうにって顔してた。誤魔化そうと笑ってても、わかるわよ。田舎者のあんたと違って、私は都会育ち。ちゃんと言うことを聞きなさい。悪いようにはならないんだから……。


そんな女の、寂しさと、寂しさと裏返しの傲慢さと、根拠のない自信と、その自信に根拠がないことが分かっているゆえの不安、その全てを湛えたような表情で、ヒロインは登場する。

彼女の小さなプライドとエゴを満たしてくれそうな相手は、子どもしかいない。ぎゅっと抱きしめてやる。息子は、ちょっと迷惑そう。だけど、私は彼を抱きしめる。亡くなった夫の忘れ形見だから? いいえ、他ならぬ私のお腹から出てきた子どもなんだから……。絶対に私を愛してくれているはず。だから、私は彼を、抱きしめてあげるの!

ヒロインのシネを演じるチョン・ドヨンは、この作品で2008年度カンヌ映画祭の主演女優賞に輝いた。愛されたい、という誰もが持つ欲望が、私は愛されて当然、というねじまがった自尊心になってしまったヒロインを、絶妙な表情で演じる。10代の時に「華やかな顔立ちで」モデルデビューした人らしいが、『ユア・マイ・サンシャイン』の項でも書いたように、どこか幸薄さを感じさせる人だ。それでいて、人いちばい強い情念を秘めているようにも見える。この映画の彼女は、一見、生活に疲れた母親でしかないが、かつてはその美貌で男どもを振り向かせてきたのよ的なかすかな傲慢さも匂わせ、その狭間で揺れ動く心を、繊細な演技で表現している。


そんなシネにまとわりつくのが、われらがソン・ガンホ演じるジョン・チャン。自動車修理工場を経営する38歳独身。「地方の男は、髪の毛ボサボサだったり油染みた服を着ているイメージがあるが、彼らだってそれなりにおしゃれをしたり、身繕いをしているはずだ」というわけで、縁なしのしゃれたメガネをかけ、髪の毛もきちんと整え、こざっぱりとした服を着ているが、そうやっておしゃれをすればするほど、かえってダサくなる男を見事に演じている。故障したシネの自動車を修理してあげたのをきっかけに、ジョン・チャンは何くれとシネの面倒を見る。ピアノ教室を開きたいとシネがいえば、さっそく知り合いの不動産屋に連絡して手配してくれる。シネが教室を開くとさっそく顔を出し、「ピアノコンテスト優勝」の額をつくって壁に飾る。私、優勝なんてしてないわよ、とシネが言うと、田舎じゃこのくらい宣伝したほうがいいんだ、とすまし顔。修理工場の女の子にセクハラまがいの卑猥な冗談を口にするような典型的なオヤジのジョン・チャンを、シネは鬱陶しく思い、本人の目の前で「あんた、俗物ね」と言い放ったりする。だがジョン・チャンは平気だ。嫌われても嫌われても、一歩引いたところから彼女にまとわりつくジョン・チャン。

地元のおばさん達に「あの人、ちょっと偉そうじゃない?」「ソウルから来たのを自慢してるのよ」と陰口をたたかれてることを知っているシネは息子を、雄弁術の教室に通わせる(そんな塾があることを初めて知った。アメリカの影響だろうか?)。塾を経営しているパク・トソプを演じているのは、チョ・ヨンジン。ソン・ガンホ主演の『大統領の理髪師』で、ストイックでハンサムなパク・チョンヒ(朴正煕)大統領を演じた。
シネは、陰口をたたくおばさん達を見返そうとするかのように、目立つ行動をとる。息子がスピーチの発表会の時は人目もはばからず応援し、経営者を囲んでの食事会では、当然のような顔で彼の隣に坐る。経営者や母親たちの前で「土地に投資しようって思ってるの」と、一財産持っているかのように仄めかす。それが、悲劇を引き起こす。シネが、塾の母親仲間とカラオケに興じているさなか、息子が誘拐されてしまうのだ。

犯人からの脅迫電話に動転したシネ。こういう時、警察を頼る韓国人はいない(少なくとも映画を観る限り、韓国では警察=無能というのが通り相場のようだ)。犯人は多額の身代金を要求してきた。そんなお金はない。土地に投資しようだなんて、見栄はってついた嘘だ。そんな見栄坊だとばれてしまうのも恐ろしい。考えあぐねた彼女が向かった先は、ジョン・チャンの修理工場。頼る相手は彼しかいない。だが、シネは、修理工場の前まで来て、引き返してしまう。ジョン・チャンが工場の事務所で、一人カラオケに興じている姿を見てしまったからだ。
この場面、ジョン・チャンの下手くそな歌以外、説明的な台詞は何もない。ただ、いかにも古くさい演歌を自己陶酔して歌う彼を見つめるシネを演じるチョン・ドヨンの微妙な表情だけが、彼女の心境を物語る。田舎者丸出しの中年男しか頼れる相手がいないみじめな自分。彼女には、そんな自分を見つめる余裕もなければ、たとえ自分が恥をかいても息子を助けたいと願う一途さもなかった。『ミスにんじん』のヒロインと同様、自己愛の強さから世の中を斜めに見る癖がついてしまい、「一途にがんばる」ことをせず、他人に自分を高く評価させることを優先させてきた。今更、自己愛の殻を脱ぎ捨てることはできない。恐ろしい。


結果的に彼女は、愚かなにも、息子の命よりも自分の見栄を優先してしまう。

息子は助からなかった。犯人は、塾の経営者だった。どうやらお金に困っていたらしい彼は、シネの「土地に投資したい」という嘘を信じてしまったのだ。


火葬場で、義理の母親から「あんたは息子だけでなく、孫まで殺したんだ!」と罵られるシネ。「涙ひとつ流さないなんて」と非難する出席者のなかで、ただひとりジョン・チャンだけが彼女をかばう。自分のせいだ。私があんな嘘をつかなかったら……。息子を一人家に置いてカラオケなんかしなかったら……。彼女は自分を責める。そして彼女は、救いを宗教に求める。たまたま入った教会で、神父の説教を聞きながら彼女は慟哭する。慟哭し、溜まり溜まった悲しみを吐き出す。吐き出して彼女は信仰の道へと入る。「今は、神様に愛されていると感じることができるの」とシネは熱心に信仰活動に打ち込む。


そんなシネ相変わらずまとわりつくジョン・チャン。教会でミサがある時は頼まれもしないのに駐車場の整理係をやる。街頭で賛美歌を歌う時も、一緒に並んで歌う。そんなジョン・チャンを仲間たちはからかうが、彼は平気だ。「よく分からないけど、楽しいよ」。監督のイ・チャンドンは、シネという女性は「人生に意味を求めてしまう」タイプだと語っている。「自分の人生には意味があり、価値があると思いこんでいるので、そうではないと感じたときに苦しんでしまう」シネと対照的に、ジョン・チャンは「彼は命があるから人生を生きているのだと考え、人生に意味を求めることに何の意味があるのかと思っている」。キリスト教の教義なんか分からなくてもいい。シネさんの側にいるだけでいい。賛美歌も歌ってみればなかなか楽しいじゃないか。

もちろんジョン・チャンだって、純粋な意味でシネを愛しているとも言い切れない。今が楽しければいいというこの男に、シネの屈折した心理は理解できない。彼は、自他を内省的に考察する習慣がない。なぜシネが信仰の道に入ったのか、理解しようという気はない。そこにシネさんがいるから、俺も参加する。
彼はシネより一歳下で、もう40歳近い。修理工場はうまくいっているようだが、さっぱり女っ気のない彼を案じる母親から、しょっちゅう電話がかかってくる。そろそろ身を固めたいと思っているところに、バツ1で年上の美人が現れた。これを逃してなるものか、今は嫌っていてもいつかは心が通じるさ。そんな下心がないわけではないのだ、と他ならぬ監督がインタビューに答えて語っている。


そしてシネが、本当の意味で安らぎを得たわけでないことは、やがて明らかになる。あるとき彼女は、街中で、息子を誘拐して殺した塾経営者の娘チョンア(ソン・ミリム)が、男たちから乱暴にいじめられているのを目撃する。
かつてシネは、子どもや母親たちの前ではハンサムで優しい好男子を演じていた塾の経営者が、16歳の娘に対しては厳格で手荒な父親だったのを、眼のあたりにしたことがある。その経営者は、いまや誘拐殺人犯として刑務所にいる。残された娘が、周囲からどんなふうに扱われているか。(後で明らかになるが)やはり厳格な父親を憎んで育ったシネには、チョンアの苦しみは痛いほど分かった。分かってシネはチョンアを助けようとしない。彼女は、刑務所にいる息子を殺した犯人と面会し、「汝の敵を許せ」というキリストの教えを実践しようとする。周囲は反対する。神父は「汝の敵を許せ、というのは、いちばん難しい教えです」と諭すが、シネは、やるといって聞かない。その理由ははっきりとは明かされないが、少なくともこれだけは言える。彼女は、実際に他者のためになることをやるのではなく、自らを高めるという形でしか行動できない人間なのだ。


刑務所にいる父親を許しても、いじめられている娘の境遇は変わらない。シネ自身が、敵を許すという行為によって、許される敵より上位にいることを証明するだけだ。そして、自分を高めようとして行った行為は、逆に彼女をよりいっそう苦しめることになる。

刑務所にいる犯人は、キリスト教に入信し、安らかな心境にいることを知ってしまったのだ。

許すべき相手は、いまだ本当の安らぎを得られないで自分より、はるかな高みに行ってしまった。息子を殺した犯人が安らげて、殺された私は安らげていない。なぜ? 彼女はその葛藤を、キリスト教への憎悪として現すようになる。CDを万引きして「盗むなかれ」という戒律を破り、キリスト教の集会会場に忍び込み、スピーカーに細工してみだらな歌を流す。暗い夜空に向かって叫ぶ。「負けないわよ、あんたになんか!」。それは、厳格だった父親への、そして父なる神への憎悪。ついに彼女は、信者仲間の妻子ある男性を誘惑する。誘惑され、彼女を抱こうとする男は、寸前に思いとどまった。シネは自分がやったことの醜さを思い知らされ、嘔吐する。壊れていく自分に耐えきれなくなったシネが頼ったのは、ジョン・チャンだった。


彼女は、ジョン・チャンの修理工場に行く。事務所で、ジョン・チャンはひとり夕食を食べていた。その日は彼の誕生日で、シネは彼とレストランで夕食をとる約束だった。初めて二人きりのデートに有頂天のジョン・チャンだったが、シネは約束をすっぽかしていた。
「ねえ」、いつになく不機嫌なジョン・チャンにシネは言う。「あなたもしたい?……セックスを」
言ってはならない言葉だった。傷つき、激怒し、荒れ狂うジョン・チャン。シネは悲鳴をあげて逃げ出す。逃げ出して自殺をはかり、精神病院に収容される。
シネだって分かっていた。頼れる相手はジョン・チャンしかいない。自分の屈折を理解してくれる相手ではない。だが、少なくとも彼なら、親身になって相談に乗ってくれるだろう。だが彼女は、ダサい中年男を前に素直に自分をさらけだせるほど、強くない。初めて見せたジョン・チャンの怒りに、もはやどこにも逃げ場がないことを悟る。悟って彼女は狂うしかない。そして……。


精神病院を退院したシネを迎えにきたのは、やはりジョン・チャンだった。いつもと同じ、明るい笑顔で病院に現れたジョン・チャンに、シネは硬い表情で言う。「髪を切りたい」。ジョン・チャンは、適当な美容院を見つけて入る。そこに働いていたのは、息子を誘拐して殺した男の娘チョンアだった。
少年院で美容師の資格をとった彼女を、美容院の女主人は「私より、センスいいんですよ」と紹介する。

シネの髪を切りながら、チョンアの眼に涙が浮かぶ。鏡に映るチョンアを無言で見つめるシネ。自分が病院に入っていた間、チョンアは少年院にいた。なぜ少年院に入ったか説明はないが、この16歳の娘が味わった苦しみは、シネには十分理解できた。理解できて、しかし彼女は何もできない。苦しみを経て美容師として立ち直り立派に働いているチョンアは、シネにとって、より惨めな自分の姿をつきつけてくる存在でもあるからだ。
シネは立ち上がり、ジョン・チャンに叫ぶ。「なんで、この店なの!」
そのまま店を飛び出すシネを呼び止めたのは、初めて彼女がこの町に来たとき、「インテリアを明るくしたほうがいいですよ」とアドバイスした洋品店の女主人だった。「あんたの言葉に従ってインテリアを変えたの。おかげでお客も増えたのよ」


シネは久しぶりに笑顔を見せる。もちろん、本当の意味で彼女の心が癒されたわけではない。この映画は、多くの韓国映画同様、安易な救いを与えない。与えないが、ひょっとしたら彼女が救われる可能性もあるのであないか、というところくらいは仄めかしてくれる。


映画のラスト、自宅の庭で、無言で自ら髪を切るシネと、その傍らに佇むジョン・チャン。彼女はまだ、日陰のなかにいる。日陰のなかで遠慮がちに距離を置いて寄り添うジョン・チャンに、彼女は眼差しすら向けない。かすかな日差しは、彼らから離れた場所にある。その密やかな日差し(シークレット・サンシャイン)にシネが気づく日が来るかどうか。





シークレット・サンシャイン [DVD]

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