ゼロ年代映画ワースト10追加映画『明日の記憶』

このブログでは、けなさなきゃならないような映画は、なるべく取り上げないできた。もちろん、観ながら「なんじゃこりゃ」「バカじゃネーの?」「ありえねーよ!」と毒づきたくなる映画は、結構ある。というか最近の邦画はそんなのばっかだったりする。
映画ファンの間では超有名な『破壊屋』という老舗サイトがある。そこで、「ゼロ年代のワースト映画」というイベントがあったので、投票した(興味ある方はここをクリックして下さい)。

ところが、投票が終わってから、ワースト10に入れたくなる映画を観てしまった。2005年の邦画『明日の記憶』である。『シークレット・サンシャイン』の項目でもちらっと触れたが、若年性アルツハイマー(正式な病名ではないそうだが)を扱った渡辺謙主演の映画。公開時、渡辺謙が精力的にテレビで宣伝していたので興味を抱いていたが、現在の邦画で病気をテーマとした作品にろくなものがないから観るのを躊躇っていたら、先日、嫁が図書館でDVDを借りてきた。まあ、主役が渡辺謙だし、自らプロデュースするほど入れ込んでいたのだから、ひょっとしたら拾いものの良作かもしれないと、嫁と一緒に観はじめて、クレジットタイトルで急に観つづける気をなくした。

「監督 堤幸彦」とでかでかと名前が出てきたからだ。

堤幸彦といえば、上述の『破壊屋』さんでも「ゼロ年代のワースト映画 最低の監督」に選ばれた人だ。ぼくはかつて『トリック』映画版を観て、あまりのご都合主義的展開を、小ネタや小技でごまかそうとする嫌らしい演出スタイルが鼻につき、以後、そんなに観ていないが、たまに観れば何をやっても『トリック』な監督だ。

でもまあ、そんな堤幸彦でも、アルツハイマー患者が主人公の映画で、まさかそんなことはしないだろうと思っていたら、やっていた!
たとえば、渡辺謙演じる50間近の電通(っぽい大手広告代理店)のモーレツ課長が、アルツハイマーを発症する部分。きーんと不気味な音が響き渡辺謙が物忘れする。アルツハイマーって知らないけど、耳鳴りがするものなのか? いちばん呆れたのは、渡辺謙が取引先に行こうとして、道順を忘れる場面。交番に聞けばよさそうなものなのに(都会のど真ん中にある大企業だよ)、わざわざ会社に携帯で電話して部下の女の子に道を聞く。女の子は、何度かその取引先に行ったことがあるらしく、記憶力だけを頼りに「そこのうどん屋さんを右折です!」と指示を送る。さて、渡辺謙は無事、取引先にたどり着けるでしょうか、というサスペンスで盛り上げようとするのだが……。盛り上がった人います?

んで、渡辺謙には、吹石一恵演じる我が儘なバカ娘がいる。別に我が儘なバカ娘という設定ではないが、吹石一恵が演じているからなのか、堤幸彦が演出しているからなのか(たぶん後者だ)、本当に甘ったれて育ったバカ娘にしか見えない。このバカ娘は、父親がアルツハイマーにかかっていることを知らない。渡辺謙が隠しているということもあるが、たんにバカだから父親の病気に気づかないようにしか見えない(脚本と演出のせいで、吹石一恵のせいではない)。
んで、このバカ娘の結婚式の最後、花嫁の父として渡辺謙はスピーチをするのだが、その原稿をトイレに忘れてしまう。果たして、渡辺謙は無事、スピーチをできるでしょうかというサスペンスで盛り上げようとするのだが……盛り上がった人います? だって電通(っぽい大手広告代理店)課長でしょ? 取引先でさんざんプレゼンテーションやってる人でしょ? 原稿なしでスピーチできたって、別に普通だろうから、ちっともハラハラ出来ない。で、渡辺謙は無事スピーチを終え、出席者の涙を誘ってめでたしめでたし、なんだけどさ。
違うんじゃないの? ここは、渡辺謙がスピーチに詰まってしまい、バカ娘が父親の病気に気がつくとか、あるいは、父親の病気を事前に知らされたバカ娘が、スピーチに失敗した渡辺謙を「パパはアルツハイマーだけど、日本一のパパです!」と庇うとかさ、臭くて泣かせる場面を作ろうと思えば、いくらでも作れるはず。
でも、この映画で泣かせる場面って、たとえば退職する渡辺謙に部下が一人一人メッセージ入りの写真を渡すとか、アルツハイマーがテーマの映画だからこその盛り上げじゃない。娘の結婚式での父親のスピーチなんて、まあ、涙もろい観客だったら前後の設定関係なしに泣けちゃう場面でしょ。それで「泣けるいい映画だった」って騙される人はいるでしょう。でもね、この映画はアルツハイマーがテーマなんですよ!
ちなみに、吹石一恵のバカ娘は、その後画面には出てこない。つまり彼女は、父親がアルツハイマーにかかってしまった娘の辛さを味わうことなくお嫁にいってそれっきり。夫の介護に疲れた母親を助けてやろうとか、そんなことはまったく考えていないかのように、吹石一恵はバカ娘のまま、映画から消える(吹石一恵、かわいそうすぎる)。


んで、上述の「あざとい泣かせ、サスペンス場面」以外に、この映画がどんなふうにアルツハイマーを描いているか。まあ、こんなふうに要約できる。

アルツハイマーにかかったら、じたばたしないで、家族に迷惑をかけないためにも、さっさと施設に入りなさい。

でもさ……。
その施設の空きがなかなかないからこそ、家庭介護に頼らざるを得ず、苦しんでいる患者や家族が大勢いることが、問題なんじゃないか!


渡辺謙は何度も書くが、電通(っぽい大手広告代理店)の管理職である。どのくらい収入があるのか知らないが、結構な豪邸に住んでいる。まー、電通(っぽい大手広告代理店)だったら、いくらでも高額な施設に入るれる蓄えがあるんですねー、いいですねー、というやっかみはともかく、それより問題だと思うのは、『シークレット・サンシャイン』の項目でも書いた、主人公と妻との関係だ。

認知症の父親を介護していたことのある人に聞いたのだが、家族にとって一番辛いのは、患者から「あんた、誰ですか?」と言われることだそうだ。仕事や家事の合間を縫って重労働である介護をやってあげたのに、他人事みたいな事を言われると、相当こたえるらしい。中には憎悪から、患者を殺害してしまうケースもあると聞いた。
この映画の渡辺謙が、妻に「あんた誰ですか?」というのは、映画のラストだ。
認知症が重くなり、家に引きこもって絶望に陥っている渡辺謙は、彼の治療費を稼ぐために外で働いている妻の樋口可南子に嫉妬し、ある日、ついに瀬戸物で殴りつけてしまう。樋口可南子の額が割れ、血がだらだらと流れるのを観た渡辺謙は、失神する。それはまあいいのだが、額を割られた樋口可南子のほうは、「あなた、どうしたの?」と我が身を省みず、夫を揺さぶる。普通、女の人が額を割られたら、ショックで寝込んでしまうくらいの心の傷を背負いそうなもんだが、なんて都合のいい奥さんだろう!

失意の渡辺謙は、家を出て、山に登る。そこに大滝秀治演じる認知症の老人が、一人で焼き物をして暮らしている。認知症の老人が一人でどうやって、食料や暖房を得ているのか、説明は一切ない。大滝秀治に「生きてりゃいいんだよ」と諭された渡辺謙は、そうか、生きていれば認知症でいいんだ、と病気を受け入れる。
渡辺謙が山を下りようとして、樋口可南子にばったり出会う。額を割られたにもかかわらず、女一人で山の中を懸命に探していた彼女に、渡辺謙は「あんた、誰ですか?」と聞く。樋口可南子は、悲しみの表情を浮かべるが、映画はそれ以上は追求せず、唐突に終わる。家族の辛さや苦しみをリアルに描いちゃうと、深刻になりすぎて今のお客は引くでしょ。このくらいにしといたほうがいいんだよ、という作り手の客をバカにしきったスタンスが見え見えの展開だ。

ここで大急ぎで付け加えておくと、渡辺謙樋口可南子も、なかなかの好演だった。とくに樋口可南子は、脚本では単なる優しくて夫思いのけなげな妻としか書かれていないにもかかわらず、無言の表情のなかに、悲しみや苦悩、怒りをにじませていた。その部分をきちんと描いていれば、良作になる題材なのだが、作り手たちはスルーした。認知症の家族を介護している人なんか、忙しくて見に来れないだろう、と割り切ったのだろうか。

かくして、妻の苦しみはスルーされ、認知症の苦しみも、キーンという安っぽいホラー映画の効果音や、携帯電話で道順誘導というサスペンスによって、「娯楽映画」の枠内で観客に受け入れやすくなっている。つまり作り手たちは、認知症そのものを見つめようなんて真摯な姿勢はもっちゃいない。認知症という題材を利用して、観客をどうだまくらかして金を巻き上げるかだけに専念したのだ。


世の中にクズ映画は多いが、一見、良心的な社会派映画の仮面をかぶっているかのように装うダメ映画ほど、有害なものはない。ぼくの中ではゼロ年代ワーストワンにしてもおかしくない作品である。

明日の記憶

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