私が存在することの意味……『サイボーグでも大丈夫』(2006年 韓国)

2006年 韓国
監督=パク・チャヌク 出演=ピ(RAIN) イム・スジョン



復讐者に憐れみを』でわがぺ・ドゥナさまを拷問死させ、『オールド・ボーイ』で名優チェ・ミンシクに生きたタコを踊り喰いさせ、『渇き』では吸血鬼カップルの血みどろバイオレンスを炸裂させた、韓国の残酷大王パク・チャヌクの作品。この人は、南北分断の悲劇をサスペンスとして描いた大作「JSA」(2000年)で当時の歴代興行記録を更新し、一躍世界的に名を知られる映画作家となったのだが、すぐその後に撮ったのが『復讐者に憐れみを』で、日本人よりはるかに残酷描写への耐性が高そうな韓国人でさえ拒絶反応を起こし、歴史的な不入りとなった。以後、『オールド・ボーイ』、『親切なクムジャさん』(2005年)と続く「復讐三部作」ですっかり”血みどろグチャグチャ映画”の巨匠として定着した。
そのパク・チャヌクが、復讐モノばかり撮っているとおかしくなりそうに思ったので、息抜きとして作った「12歳になった自分の娘にも見せられる」「ロマンチックなラブコメディー」と自ら称しているのが、本作。
主演は、日本を含めたアジア各地で人気がある歌手のピ(RAIN)。近年はアメリカにも進出し、『スピードレーサー』『ニンジャ・アサシン』といったハリウッド映画にも出演している、韓国きってのアイドルスター。日本公開当時、彼目当てに足を運んだ韓流マダムも少なくなかったらしい。ポスターやDVDジャケットを見ると、真っ赤な壁の部屋で、天使のように白づくめの男女がキスする寸前という、いかにも「ちょっとシュールで、笑って泣けるラブコメ」っぽい写真が使われている(一番真下の商品紹介を参照)。
しかしだ、なんせ監督が鬼畜パク・チャヌクである。すんなりハートフルなラブコメ映画をまともに作るわけがない。


映画は、ラジオの組み立て工場から始まる。強烈なグリーンで塗られた巨大な工場、整然と並んだ作業台で、真っ赤な制服の女子工員たちがラジオを組み立てている。チャップリンの『モダン・タイムス』やエイゼンシュテインの『ストライキ』といった古典的名作で描かれた、非人間的で幾何学的なモダンアートとしての工場風景。
そんななか、ひとり挙動不審な女子工員が、ヒロインのヨングン(イム・スジョン)。眉毛を金色に染めた不気味なメイクに意味不明の薄ら笑い。何事かと不安に思って見つめていると、彼女はいきなりカッターナイフで自分の手首を切り裂き、電気コードを傷口に差し込む。コードから流れ込んだ電流で彼女は全身をふるわせ気絶する。
まったく、どこがラブコメだよ! という怒りは湧かない。パク・チャヌクはやっぱこうじゃなきゃね♪(とはいえ、こんな場面を彼は本当に、12歳の娘に見せたんだろうか?)

彼女は精神病院に入院する。彼女は祖母と母と三人暮らしだったが、食堂経営に忙しい母親ではなく、祖母が面倒を見ていたらしい。いや、祖母の「面倒を見ていた」ところもあった。ぶっちゃけ共依存の関係だったようだ。祖母は認知症で自分をネズミだと思いこんでいた。そんな祖母の影響なのか、彼女は自分がサイボーグだと信じている。その祖母が強制入院させられたことで、彼女の狂気は歯止めがきかなくなり、ついに、工場の電気を体内に補充しようとしたというわけだ。
入院してからも彼女は、病院食を拒否する。集めた乾電池をなめ、エネルギーを補充している(つもりである)。病院は点滴と投薬で身を持たせていたが、それすら拒否するようになる。彼女は、他の病院に収容されている祖母に会いたくてたまらない。ひとつは、祖母が入れ歯を置き忘れていったからだ。入れ歯がなきゃ、おばあちゃんが大好きなカクテキが食べられない。

んで一応ラブコメなんだから、恋の相手役がいる。ピ(RAIN)演じる患者仲間の青年だ。彼は、盗みの名手ということになっている。謙虚すぎる患者仲間から「俺の謙虚さを盗んでくれ」と頼まれると盗んでやり、その患者は傲慢きわまりない奴になる。「木曜日を盗んで」と女性患者に頼まれると、彼女が木曜日にはく予定だったパンティを盗む。かくして彼は、「盗みの名手」として患者たちから尊敬されている(なんのこっちゃ分からんだろうけれど、本当にそうなのだ)。青年の盗みのテクニックに感服した彼女は、「私の同情心を盗んで」と依頼する。「私、白衣の連中を皆殺しにして、おばあちゃんに会いに行かなきゃならないの」。白衣の連中とは、医師や看護師のこと。入れ歯を届けるためになぜそこまでしなければならないのか。

祖母は連れ去られていく間際、彼女に「あなたの存在理由は……」と言いかけた。私の存在理由? それはなんだろう。彼女はそれを知りたい。だが、病院の医者や看護師が邪魔する。思い切り充電して、やつらを皆殺しにして、おばあちゃんに会いに行くのだ!
妄想のなかで彼女は、指先から放たれる銃弾で、医師や看護師をターミネーターよろしく殺戮する。全身を蜂の巣にされ、白衣から真っ赤な鮮血を吹き出してバタバタ倒れる白衣の男女。



とまあ、一応ヒロインを中心に、あらすじを抽出してみたが、実をいうとこの映画、ストーリーを追うだけでもひどく疲れる映画だ。登場人物のほとんどは、精神病院の患者である。『カリガリ博士』など1920年代ドイツ表現主義映画のような幾何学的で極彩色の病院セットで、個性的な患者たちの奇天烈なドラマが錯綜する。医師や看護師も出てくるが、ヒロインを担当する女医をのぞけば背景的キャラクターでしかない。そして映画は、患者たちの妄想と現実を区別せずに展開する。パク・チャヌク監督作には珍しく、説明的な台詞も多いが、なんせ説明するのが患者自身なのだ。聞けば聞くほど頭がこんがらがる。こういう映画の場合、たいてい、患者たちの行動原理を説明する狂言回し的存在(医者だとか患者の家族だとか)がいて、観客に混乱を生じさせないよう配慮するのだが、そんな親切心をこの監督が持っているはずもない
監督は、あえて精神病院の患者たちの論理をもとに物語を展開させていくことで、正気と狂気との間に、そんなに差があるのか、ということを観客に気づかせたいのだと思う。観客がこの映画を理解するためには、あえて、彼らの思考方法を受け入れて、彼らの視線と同じになって見ていくしかない。だから疲れる。疲れるけれど、こういう疲労感は嫌いじゃない。

やがて、ヒロインの祖母が亡くなる。亡くなる間際、彼女の妄想におばあちゃんが現れ、彼女の「存在理由」を告げる。さらに「盗みの名手」である青年の献身的な導きによって、彼女は食事をするようになる。心で食べようと決めても、身体が拒絶してしまう彼女のため、青年は、食事を電気に変換させる装置を「発明」し、彼女の身体に埋め込んでやる。このあたりのシークエンスは、確かに「ロマンチック」だ。彼女がやっと病院食を口にする時、食堂に集まった患者たちがいっせいに応援する様は、『スイングガールズ』の矢口史靖監督作品のよう。やがて彼女は体力を回復させる。青年の愛を受け入れ、めでたしめでたしと思いきや……。

そこで話を終わらせないのがパク・チャヌク。健康を取り戻した彼女は自分の「存在理由」を果たすべく行動に出る。

彼女の「存在理由」とは……世界を滅ぼすことだった

青年は、確かに少女を救った。救っておいて、巨大なモンスターを生み出してしまった。『渇き』でソン・ガンホが演じた神父のように、自ら生み出したモンスターを制御することもできず、消極的ながらも彼女に協力するしかない。

いやま、もちろん彼女が本当に世界を滅ぼせるわけないし、あくまでも彼らの妄想のなかでの展開なんだけど、この映画では妄想と現実の区別をつけちゃいけない。だからこの映画は、一部のファンからはパク・チャヌクの「黒歴史」だとか「どこに向かっているんだろうと心配」させるような作品と言われているけれど、やはりこの映画は、正統派のパク・チャヌク映画なのだ。