暴力と、団らんと……『息もできない』(2008年、韓国)

2006年 韓国
監督・主演=ヤン・イクチュン 出演=キム・コッピ イ・ファン



亀田興毅が口ひげをはやしたような風貌の男が、バッシングにあう前の亀田興毅がやっていたように、肩をいからせながら、とある家に入っていく。家のなかには、くたびれた風貌の男がいる。
「借りたもん、返さんかい!」
ヒゲをはやした亀田興毅は男をぼこぼこに殴り、蹴りつける。カットが変わると亀田興毅は、その家で、債務者と食卓を囲み、ジャージャー麺をすすっている。その傍らで、債務者は、コーンフレークにミルクをかけて食べている。二人とも言葉少なだが、さもお腹が空いていたかのようにむさぼり食う。二人の間には、借金取りと債務者以上の関係はないし、この後、債務者は登場しない。
で、ぼくは、この冒頭二十分くらいの場面だけで、この映画は傑作だと確信できた。


お菓子研究家の福田里香さんが、フジテレビ系のネットマガジン「少年タケシ」に連載している「ゴロツキはいつも食卓を襲う」が面白い。福田さんは、映画やドラマにおける「フード理論」を提唱されていて、小道具としての「食事」が、ドラマ展開やキャラクター造形にとっていかに重要な意味を持つかを説いている。詳しくは以下を参照していただきたい。
http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_gorotsuki/E20100301001.html
http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_gorotsuki/E20100315001.html

福田さんの「フード理論」に従えば、上記の場面はかなり変わっている。この借金取りの冷酷非情さや悪辣さを描くのであれば、彼らは、金を借りた男が家族と食事をしているところに踏み込み、楽しい団らんをめちゃくちゃにしなければならない。だが、借金取りが債務者と食卓を囲むことで、そこに現れたのは、福田さんのフード三原則のひとつ「善人は、フードをうまそうに食べる」的光景なのだ。
福田さんは別の場所で、映画やドラマにおける食事シーンとは、「腹を見せる」、すなわち、キャラクターたちの仲間意識や連帯感を現し、観客に親しみを抱かせる効果があると述べている。
すなわち、亀田興毅似の借金取り――この映画の主人公だ――に対して、観客は二つの印象を得る。たしかに乱暴な男だが、どこか憎めない、と。

この映画のシナリオを書き、製作・監督・主演をつとめたヤン・イクチュン演じる借金取りのサンフンが、この映画の主人公だ。彼は、貧しさからくる鬱憤を、女房に暴力をふるうことでしか晴らせない父親のもとに育った。父親は、サンフンが幼い時、女房を包丁で刺そうとして、あやまってサンフンの妹を殺してしまった。母親は、娘が死んだショックで外に飛び出し、トラックにはねられて死んだ。父親は刑務所に行った。サンフンは、家族の愛情を知ることなく育った。その結果、彼は、暴力と罵詈雑言と上から目線のお説教によってしか、他人とコミニュケーションをとれない男になってしまった。

彼が債務者にふるう暴力は、眼もあてられないほど凶暴だ。他の人間にも彼は暴力をふるう。映画の冒頭、街で女をなぐっていた男を、サンフンはぼこぼこにする。男をぼこぼこにした後、彼は、殴られていた女のほっぺたをひっぱたいて、こう言うのだ。「なんでやられっぱなしなんだ?」。
また、彼が取り立てに踏み込んだ家に、小さな子どもがいるときは、必ず子どもを外に出してから、暴力をふるう。自分の父親が殴られているのを、子どもに見せまいとするのだ。一方、踏み込んだ家で、夫が妻に暴力をふるっていると、それこそ狂ったように夫を半殺しにする。半殺しにして、叫ぶ。「韓国の父親は最低だ! お前は人を殴るとき、自分が誰かに殴られると思ってねえだろ!」
もちろん、最低なのは、韓国の父親だけじゃない。ちっぽけなプライドを満たすため、かよわい者に暴力を振るう男は、日本にもいるし、世界中にいる。そんなどうしようもない男たちへの怒りと、暴力によってしかプライドを満たすことの出来ない惨めな男たちへのシンパシーが、この映画には溢れている。


この映画の監督であり、主人公を自ら演じるヤン・イクチュンは、この映画の主人公と同じような境遇に育った。大好きな母親が、父親に殴られる光景を何度も見ながら、父親への怒りと、父親の暴力を止められない自分の無力さへの悲しみを、噛みしめる毎日。やがて彼は俳優になり、多くの映画で「その他大勢」を演じた。誰からも注目を浴びなかったが、子どもの時の怒りと悲しみを、フィルムにたたきつける術をどん欲に学んだ。自分の経験をもとにシナリオを書き、住んでいた家を売り払い、友人に借金し、金を集めて、一本の映画を完成させた。その映画にみなぎる悲しみ、切なさ、希望、絶望、すべて「一瞬たりとも、嘘はない」と言い切るだけのものを作り上げた。


こんな話を聞いたことがある。
故・松田優作は、川崎の在日朝鮮人の家に生まれた。貧しかった彼は、家族の団らんを知らずに成長した。彼が、はじめてホームドラマに出演した時、いちばん彼を困らせたのは、食事のシーンだった。家族で飯を食う時、どんなふうに振る舞ったらいいか、わからなかったと、演出家の久世光彦が語っていた。

たとえば、サンフンが、この映画のヒロインである女子高生のヨニ(キム・コッピ)と出会う場面。たまたまサンフンがはいた唾が ヨニの服にかかる。通り過ぎようとするサンフンを「おいこら」と呼び止めるヨニ。サンフンは、かかった唾を拭いてやるが、そこは彼女の胸の部分。手を振り払われてサンフンは反射的にヨニを殴る。
女子高生を殴って気絶させる主人公。とんでもない出会いのシーンだが、ヨニが眼をさますと、サンフンはじっとその場で待っていて、缶ビールとスルメを差し出す。「食えよ」。それはサンフンなりの不器用な謝罪。ヨニは並んでビールを飲む。自分を見つめるヨニにサンフンは「何見てるんだよ、このあばずれ」。ヨニは言い返す「口の利き方しらないの? いかれ野郎」。
ヨニは早く母親をなくし、ベトナム戦争従軍の後遺症で認知症気味の父親と、ぐれた弟の面倒を見なければならない境遇だった。彼女が狭い台所で食事の用意する場面がある。弟が顔を出すが「金、くれよ」とせびり、どこかへ遊びに行く。食事を作って父親の部屋に運ぶと、「母さんはどこにいる?」「母さんは死んじゃったじゃない」「嘘だ、どこかで男とやりまくってるに決まってる!」。父親は食卓をひっくり返す。
借金の取り立て先で債務者とジャージャー麺を食うサンフンは、心の何処かで、家庭的な団らんを求めている。ヨニは、サンフンと罵りあいながら呑むビールのほうに、安らぎを覚える。

サンフンには腹違いの姉がいる。夫の暴力に耐えかねて家を出て、幼い男の子を育てながら働いているシングルマザーだ。優秀な取り立て人であるサンフンは、雇い主の闇金社長からたびたびボーナスをもらうが、すべて姉にあげている。サンフンが貧乏で仲間から馬鹿にされていると知ると、大量の駄菓子やプレステを買い与える。姉は、御礼にサンフンを焼き肉屋に誘う。だが、サンフンはうつむいたきりで、食事に手を着けない。彼は、他人と向かい合って食事をすることもできない男なのだ。先にあげた松田優作のエピソードが思い出される。



その後、幾度も食事シーンが出てくるが、サンフンは常に、うつむいたきりだ。結局彼が他人とともに飯に箸をつける場面は、冒頭のジャージャー麺のシーンしかない。
だが、映画の最後、サンフンは命がけで、ある場面を作り出す。そこでは、姉と、姉の新しい夫と、甥と、そしてヨニが、楽しく焼き肉を囲んでいる。この場面でぼくは、涙がとまらなかった。サンフンは、見知らぬ者同士を結びつけ、楽しく「腹の底を見せる」絆を作り、そして去っていった。


男として、何かをやりとげたのだ。




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