爽快なまでの後味の悪さ……『復讐者に憐れみを』(2002年、韓国)

2005年 韓国
監督=パク・チャヌク 出演=ソン・ガンホ シン・ハギュン  ぺ・ドゥナ



以下のようなシーンが生理的にダメという人には、おすすめできない映画だ。

・メタボ腹の中年男が、カッターで自分のお腹を切り裂く
・見た目も性格も可愛い女の子が川で溺死する様を、ゆっくりと描く
・その女の子が司法解剖される。医者の「そこ、のこぎりで切って」と指示する声が聞こえる
・その女の子の葬式場面。火葬場で焼かれる棺桶の内部が映され、女の子の肌が炎で変色する
・かつて綺麗だった女性が自殺し、死体を掘り起こすと顔にウジが涌いている
・母親の目の前で息子の首にドライバーを打ち込む
・四人の男が並んで自慰行為に耽っている(ある種の女性は好きかも?)
・一家心中し、小さな息子が一人だけ助かるが、結局死ぬ
・川の中に立っている男のアキレス腱を切り裂く

ちなみに、ぼくは全部生理的に受け付けなかった
とくに、娘を持つ父として、小さな女の子が死ぬ映画は耐えられない。


そんな映画をなぜ見たかというと、『グエムル 漢江の怪物』ですっかりファンになってしまったぺ・ドゥナさまが出演しているからだ。いわゆる人工的な韓流美人とはほど遠い顔立ちなのがいい。ここぞという場面では、金魚のような大きな眼が雄弁に物語を紡ぎ出す。素の彼女はいわゆる「不思議ちゃん」キャラらしいけれど、本来の意味での自然体で、どんな役でもこなせる天性の女優さんだ。



で、この映画でのぺ・ドゥナさま演じるヨンミというキャラがどんなことをするかというと。

視覚障害の青年に手話で誘拐をそそのかし、その結果十人以上が死ぬ
・素足で男を蹴りまくる(ある種の男性にはこたえられないかも?)
・拷問される(別の意味である種の男性にはこたえられないかも?)
・拷問されて失禁する(ある種の男性には……以下略)
・その結果、死ぬ(絶対に許せない!)


左から 手話で誘拐をそそのかすぺ・ドゥナさま/恋人を素足で蹴っ飛ばすぺ・ドゥナさま/拷問されるぺ・ドゥナさま/亡くなってしまったぺ・ドゥナさま(合掌)

父親としても、一ぺ・ドゥナさまファンとしても許し難い展開にもかかわらず、最後まで見終わることができたのは、『グエムル 漢江の怪物』や『チェイサー』『母なる証明』などで、韓国映画の情け容赦のなさに慣れて、耐性ができていたというわけではなさそうだ。

以前、スピルバーグの『ジュラシック・パーク』を今の妻と見に行ったことがある。何人か恐竜に殺されるのだが、観客にとって共感できないように描かれている順に死んでいた。まずは嫌みな保険会社社員、悪巧みをするデブのオタク、あと二人死ぬが、いずれも存在感の薄い脇役たちだ。主人公やその恋人や子どもたちはどうせ助かるんだろうなと思ったら、そのとおりだった

この映画は逆だ。まず最初に死ぬのが、観客がいちばん死んでほしくないと願う、哀れで健気な女性なのだから。

客のお涙を頂戴するために人を死なせるというのは、ドラマ作りでよくある(安直な)手法の一つである。あるいは、極悪非道のキャラがさんざん人を殺す場面を描いて、そいつを最後にぶっ殺すことで喝采を得るという手法もある。
この映画はどちらでもない

メインプロットは、子どもを死に至らしめられた父親が、犯人への復讐を誓い、最後に対決するというもの。それ自体はわりとある題材だ。父親にも、誘拐犯にも、それぞれ同情すべき点のある善人という設定自体も、珍しいものではない。困るのは、この映画の主人公たちは、同情すべき存在であると同時に、眼を背けるような悪行も平然とやってしまうので、同情したくてもできないことだ。

あらすじを追っていこう。

前半の主人公は誘拐犯である聴覚障害者の青年(『トンマッコルへようこそ』で韓国軍将校を演じたシン・ハギュン)。彼には病気の姉がおり、移植用の腎臓提供者が現れるのを待っている。
ある時、聴覚障害青年は勤めていた工場をクビになってしまう。収入のめどがなくなった彼は、闇の臓器提供業者に有り金を全部払って以来する。が、金をだまし取られただけでなく、自分の腎臓まで奪われてしまう。その直後、医者から連絡が入る。「喜べ、腎臓提供者が現れたぞ!」。手術費用にと貯めていたお金はだましとられた。勤め先はクビになったばかり。なんという間の悪さ。

聴覚障害青年の恋人(ぺ・ドゥナ)は彼に、金持ちの子どもを誘拐して身代金を取ろうと提案する。かつて学生運動に参加し、海を泳いで北朝鮮に渡ろうとしたこともある彼女は、「私たちを搾取する金持ちから奪っても、悪いことじゃないわ。子どもをちゃんと帰してあげさえすればいいんだから。これは、”いい誘拐なのよ”」と青年以上に計画に乗り気。

この映画が作られた当時の韓国は、IMFの管理の下、今や悪名高い新自由主義政策をとっていた。ちょうど日本では小泉内閣が成立し、「痛みを伴う改革を!」のスローガンに国民が踊らされていた時期だ。確かに景気は回復したが、貧富の差が拡大し、失業者や自殺者が急増した。映画は最初、主人公たちのような「持たざる者」と、高級スーツに身を固めて外車を乗り回す「持てる者」の「格差」を強調する。これは「格差社会批判」の「社会派映画」なのかな、と錯覚させられる(あくまでも「錯覚」なのは、後半の展開でわかる)。

ともあれ、聴覚障害青年と、時代遅れの社会主義かぶれの娘は、ある電機工場の経営者の娘を誘拐することに成功する。経営者は警察に通報せず、身代金の受け取りにも成功、後は誘拐した少女を送り返すだけ。万事スムーズにいくと思いきや、思わぬ事態が起こる。聴覚障害青年の姉が、弟が誘拐の罪を犯したことを知り、自殺してしまうのだ。

ここから事態は、どんどんに悪化していく。

聴覚障害青年は遺言にしたがい、昔一緒に遊んだ河原に姉の遺体を埋める。その作業中、連れてきた少女が溺死する。川に落ちた少女がいくら叫んでも、耳の聞こえない青年は気づかない。彼が悲しみをこらえつつ、姉の遺骸の上に石を積み重ねていくその背後で、少女が流されていくショットはおぞましい。さらに、上に書いた司法解剖、火葬場面が続き、これでもかこれでもかと観客の神経を逆撫でする。

これらの残酷描写が、ただ観客を怖がらせようというあざとさの現れであったら、単に嫌悪感に襲われるだけですむのだが、この映画の意図はそうではない。

少女の父親の会社経営者は、最初、豪華な外車に乗り、サングラスをかけた姿で現れる。確かに、「貧乏人を搾取する悪い金持ち」っぽく見えるが、そうではない。後半になってサングラスを外して登場する経営者は、実は高卒で、腕一本で苦労して工場を築いた苦労人だということが分かる。経営に行き詰まって資金繰りに苦しみ、妻には逃げられ、ただただ娘を溺愛する小市民にすぎない(経営者を演じる名優ソン・ガンホの、ビートたけし毒蝮三太夫を足して二で割ったような風貌が、その印象をさらに強める)。娘の司法解剖に立ち会い、上に書いた「そこノコギリで切って」という医者の台詞を聞かされてじっと耐える彼の表情が、見る者の胸をえぐる。さらに彼の会社は倒産し、豪邸や車を売り払って債務を支払うとわずかなお金しか残らない。彼はもはや、復讐することしか生きる意味を見いだせない。

そう、誘拐された少女をめぐる残酷描写は、父親が復讐の鬼になっていく過程を観客に納得させるために必要なことだったのだ。

とはいえ、観客がこの会社経営者に同情を寄せられるかというと、そうでもない。映画では、資金繰りに困った彼が泣く泣くクビにした社員が、一家心中する場面が出てくる。そう、誘拐した少女を誤って死なせてしまった聴覚障害青年と同様、経営者もまた心ならずも人を死に追いやっていたのだ。

同じように、本意ではないにせよ、人を死なせてしまった二人。果たしてこのような場合、人間はどうなるだろうか。
自分の行為を悔い、償いの道を選ぶのか。それとも、死に無感覚になり、さらなる罪を重ねるようになるのか。

この映画の場合は、後者だった。

この後、映画は二つの復讐劇を描く。聴覚障害の青年は、少女を死なせてしまった罪悪感を、闇の臓器売買業者に復讐することで忘れようとする。そもそも、あいつらに騙されなければ、こんなことにはならなかった。責任転嫁である。彼は、恋人の協力を得て、臓器売買業者への復讐を果たす。目を背けるような残忍なやり方で。
一方、会社経営者は、聴覚障害の青年に協力した恋人を監禁し、拷問にかける。激しい拷問に「ごめんなさい。私が悪かったわ……」と懺悔する彼女に、聞く耳を持たず無表情でさらに拷問をくわえるソン・ガンホの演技は、人間がここまで残酷になれるものかと戦慄さえ覚える。

こうして二人は最後の対決を迎える。経営者は叫ぶ。

「お前も、俺と同様、根は優しい人間なんだ。だから分かるだろう? 俺がお前を殺さなきゃならない理由が」



人間は、優しい。優しいから、残酷になれる。そうだとすれば世も末という気にもなるが、考えてみれば、新聞の社会面をにぎわす殺人事件の多くは、このように「根は優しい」善人たちが、ふとしたきっかけで犯しているのだろうな、と思ったりもする。

こうして救いのないまま、映画は終わる。見終わって感想はこれしかない。
「すごいもん、見せていただきました」