慈愛と性愛と……『渇き』(2009年 韓国)

2009年 韓国
監督=パク・チャヌク 出演=ソン・ガンホ キム・オクビン

オールドボーイ』の衝撃タコの踊り食いシーンでぼくを眠れなくしたパク・チャヌク監督の最新作だけに、たとえば「釣り針が耳たぶにひっかかり、耳を引き裂く」とか「胸が切り裂かれ、切り口からつっこまれた手が心臓を掴む」といったシーンが苦手な人は避けたほうがいい。有楽町のヒューマントラストシネマで見たのだが、途中で耐えられなくなって退席した人が二人ばかりいた。吸血鬼となった神父が主人公だが、従来の映画に出てくる吸血鬼のように尖った歯が生えてくるわけではない。従って、血を吸うためには、何らかの方法で相手の身体を切り裂かねばならない。当然、「痛い」シーンのてんこもりとなるのは仕方がない。

ところで、映画に出てくる吸血鬼といえば、貴族的な風貌の二枚目と相場が決まっているのだが、今回、吸血鬼を演じるのは、庶民派のソン・ガンホだ。ある映画ガイドブックに、「あのご主人、リストラされてたんですって」と井戸端会議で噂されそうな風貌と書かれていて大笑いしてしまった。この人を初めて見たのは『グエムル 漢江の怪物』のダメ親父だった。本当にダメな男がはまっていたのだが、映画がクライマックスに近づくにしたがって、「あれ、このひと、かっこいいじゃん」と思えるシーンが増えていく。山田洋次監督は「韓国の渥美清」と呼んだそうだが、『JSA』の冷静沈着な北朝鮮軍人とか、『復讐者に憐れみを』の善人が復讐鬼になっていく演技とか、とにかく幅広い(斜陽の松竹の事情により、結局コメディアンの枠から外させてもらえなかった名優・渥美清の悲劇とくらべ、なんて幸福な俳優だろう!)。外っつらだけではなく、内面からにじみでる「かっこよさ」のオーラが、ジャガイモみたいな風貌をハンパな二枚目なんかよりよほどかっこよく見せてしまえるのだ。今回は、結構長いヒロインとの全裸セックスシーンまであるのだが、なんの違和感もなかった(ソン・ガンホのすごいのは、出演作にハズレがなさそうなことだ。この人が出ているだけで、好みはともかく、作品のレベルは保証されたようなものであるらしい)。

さて、物語。サンヒョン(ソン・ガンホ)は孤児として修道院で育てられ、敬虔で生真面目な神父になった、いわば純粋培養の宗教者。だが、彼は信仰に疑問を持ち始めていた。修道院内の病院で重病患者のために祈ってやるが、助かるはずもない。男との関係がもつれている女性信者の告解を聞いてやる。「祈りなさい、そして相手の男のことは忘れなさい」と諭しても、女は「男のことはほっといてよ」と捨て台詞。

思い詰めた神父は、治療法のないウィルスのワクチンを開発している研究所を訪ねる。肌に水疱が出来、やがて内臓に広がって死に至らしめる奇病。彼は、自分の身を生体実験に提供する。発病したら、まず助からない。自殺願望がなかったわけではないだろう。きまじめな彼は、自分の死が少しでも奇病に苦しむ人々のためになれば、と我が身を捧げたのだ。やがて発病し、彼の全身を水泡が覆い、やがて死ぬ。ところが、彼は生き返った。吸血鬼として。

生還した彼の噂は、難病を抱えて生きている人々の間に広まる。その手が触れただけで病が治る、と。キリストにむらがるサマリア人のように、病者に囲まれるサンヒョン神父。だがその実、彼は人の生き血を啜らねば、肌に水泡が生じる身体になっていた。神父としての良心を失っていない彼は、なんとか人を殺さずに血を手に入れる方法を探す。大量出血で運ばれてきた負傷者や、昏睡状態からさめない患者の血を集める。
その彼の前に、運命の女(ファム・ファタール)が現れる。

ヒロインのテジュ(キム・オクビン)は、サンヒョンと同様、身寄りのない女だった。チマ・チョゴリの店を商う老女に拾われ、その息子ガンウ(シン・ハギュン=『復讐者に憐れみを』の聴覚障害青年、『トンマッコルへようこそ』の韓国兵)の妻となっていた。ガンウはやや知能に障害があるらしく、母親から甘やかされて育った我が儘息子。しかも、性的不能者。とある縁から、彼女の家に出入りし、毎週水曜日に開かれる麻雀の会に出るようになった神父は、彼女の哀れな境遇を知っていくにつれ、恋に目覚めていく。信仰の世界しか知らない彼は苦悩し、性欲を鎮めるために、自分の身を傷つける。
かつてロシアには、「鞭身派」という異端の一派があった。ドストエフスキーの小説にもしばしば登場することが指摘されているが、体を傷つけることによってエクスタシー状態になり、神や聖霊を見ることができるという集団だったらしい。時には集団で傷つけあい、エクスタシーが高じて乱交に至ることもあったという。信仰が高まることで、性欲が昂進するという矛盾。サンヒョン神父もまた、自傷行為で性欲を鎮めることができず、ついに、テジュと性関係を結んでしまう。
むろん、サンヒョンがテジュに関心をもったのは、彼女の境遇への同情からだった。聖職者として彼女を救いたいという一心だったはずだ。そして、地獄のような日々から救い出してくれる人を待ち続けてきたテジュもまた、神父にすがりつく。

その後の展開は、この映画が下敷きにしたというエミール・ゾラの「テレーズ・ラカン」にほぼ忠実だ(『嘆きのテレーズ』というタイトルで映画化された)。サンヒョンとテジュは共謀して、マザコン夫のガンウを殺す。母親はそのショックで全身麻痺になる。サンヒョンとテジュは、身動きのできない母親を尻目に、愛欲に耽ろうとする。だが、できない。殺人を犯した良心の呵責からか、セックスする度に、殺された夫の幻影が浮かぶ。正常位で懸命に腰を動かす神父とテジュの間に、にたにた顔の夫がはさまっている場面は、笑っていいのか戦慄していいのか、よく分からない。そのあたりから、映画は『テレーズ・ラカン』を離れ、いかにも韓国的なカオスに満ちた展開になっていく。


混乱するサンヒョンはなおも信仰にすがろうとするが、神は沈黙を守るのみだ。ついに、テジュに暴力を振るったりする。「あんたなんかより、死んだ夫のほうが優しかったわ! 少なくとも、彼は私を殴ったりしなかったもん!」とののしるテジュを、ついに絞め殺してしまう。絞め殺して我にかえった彼は、なんとかテジュを蘇生させようとする。そういえば俺は、あの生体実験で奇病にかかってしまった時、輸血されることによって吸血鬼として蘇った。その俺の血を、彼女に与えれば……。
そして彼女は蘇生する。吸血鬼となって。
生きるために、愛のない結婚生活のなかで、女としての情念を押さえ付けて生きてきたテジュは、吸血鬼として新たに手に入れたパワーを全開にさせる。人を襲って殺し、血を吸う。やっと生きる喜びを得られた。常に、人に仕えることで生きることを許されてきたも同然の彼女は、人を殺すことで長年の「渇き」を満たす。
一方、聖職者として尊敬されることで、生きることを許されてきたサンヒョンは、いまだに良心に縛られ、病院の患者や、自殺志願者の血しか吸わない。だが彼は、自分の欲望を満たすためにテジュを吸血鬼にし、その結果、多くの人命を奪うことになった。サンヒョンは、なんとか彼女を押さえようとし、ついに格闘になるが、テジュは負けない。「自殺者の血なんか吸ってるから、あたしにかなわないのよ」とうそぶくテジュ。
テジュを演じたキム・オクビンは、23歳。テレビやCMで美少女アイドルのイメージが強かった人らしいのだが、文字通り、体当たりのセックスやバイオレンスを演じる。猫のように用心深い目つきで身をくねらせる彼女は、まさに魔性の女。彼女を止めるには、もはや殺すしかない。神父はそこまで思い詰めさせるほど、どんどんエスカレートしていくテジュは……しかし、サンヒョンを想う気持ちは、本物であり、純粋であったことが、最後に示される。



日本語の「愛」は、キリスト教の世界では、アガペとエロスに分類される。乱暴に割り切ると、アガペは慈愛で、エロスは男女の愛。好きとか嫌いとかを超越した概念であるアガペのほうがより尊いとされているのだが、果たしてそうだろうか? 同じ男女の愛でも、純愛と性愛は別なのか? いずれも、同じ人間として生きていく原動力となる「欲望」の産物という意味で、同じ根っこを持っているのではないのか?
「純愛」だとか「夢」だとか「癒し」だとか、昨今の日本製ドラマは、空虚なキーワードを恥ずかしげもなく役者に喋らせすぎる。だが、「癒し」とはつまるところ、「渇いた」吸血鬼が人の生き血を求めるのと、どう違うのだろう。
ともあれ、脳天脊髄のみならず、痛覚神経までを金属バットで直撃する怪作だ。




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テレーズ・ラカン〈下〉 (岩波文庫)

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