ぺ・ドゥナの、ぺ・ドゥナによる、ぺ・ドゥナのための映画……『空気人形』(2009年、アスミック・エース)

2009年 アスミック・エース
監督=是枝裕和 出演=ぺ・ドゥナ ARATA 板尾創路


ぼくは、是枝裕和監督の映画とは、ひどく相性が悪かった。柳楽優弥カンヌ映画祭で主演男優賞を獲得した『誰も知らない』(2004年)も、岡田准一主演の時代劇『花よりもなほ』(2006年)も、テレビで見たが、30分と持たずにリタイアした。出てくる登場人物に生気がなく、台詞も観念的で説明っぽく、話の運びもだらだらしていて、ひどく退屈な出来だった。2008年に公開された『歩けども、歩けども』は絶賛されていたが、足を運ぶ気にはなれなかった。

だから、この『空気人形』も、大の贔屓のぺ・ドゥナが主演でなければ、たぶん見ていなかっただろう。そして見終わった今思うのは、ぺ・ドゥナが主役でなかったら、途中で退席していたかもしれない、とぴうことだ(この作品は、池袋の新文芸坐で見た)。

簡単にあらすじを書こう。

ぼろアパートの住む40代のうだつのあがらない独身男(板尾創路)が「のぞみ」と名付けるラブドール(かつてはダッチワイフといった)がヒロイン。ある日、「のぞみ」は心を持ってしまう。

「のぞみ」は、持ち主である独身男が出勤している間、街をさまよう。赤ん坊のように歩き方を覚え、言葉を覚える。かたことでしゃべれるようになった頃、レンタルビデオの店員(ARATA)と知り合った彼女は、その店に勤めることになった。独身男が朝出勤すると、彼女は外に出て街を歩いたり、おしゃれをしたり、ゲームセンターで遊んだり、公園で独居老人とお喋りし、午後からはレンタルビデオ屋で働き、夜は帰ってきた独身男に対して、無言のラブドールを演じる。やがて彼女は、店員と恋に陥る。

そんな彼女を中心として、都会の片隅にうごめく孤独な人間たちが描かれる。独居老人(富司純子、高橋昌也)、母親が不在で人形を手放せない女の子、過食症のOL(星野真里)、メイド喫茶に入り浸る浪人生(柄本祐)、若さに執着しアンチエイジングに励むオールドミス(余貴美子)、ビデオ屋の店長は毎朝ひとりでたまごかけご飯を食べ、店員は自ら「ぼくはからっぽだ」と呟く。
彼らとかかわるなかで、「のぞみ」は、生とは何か、死とは何か、老いることとは、愛することとは、愛されることとは、すなわち「世界」とは何かを学んでいく。

ここで、「心」を持ってしまったラブドールが、孤独な人々をつないでいく、という予定調和のハリウッド的展開にしなかったのはいい。監督が目指したのは、ハートウォーミングなコメディではなく、哲学的な寓話なのだ。それもいい。
だが、結局のところ(後で述べるように)、この映画を十分楽しめたのだが、お話じたいにはノレなかった。何というのか、話の運び方が、ひどく雑に感じられたのだ。

たとえば、「のぞみ」がレンタルビデオ屋に勤めることになる場面。ずらりと棚に並ぶDVDのパッケージに見とれていた「のぞみ」が、次の場面ではもう、店員としてレジの中に収まっている。かたことしか日本語を話せない正体不明の女の子に、レジまで任せるだろうか。どういう理由で店長が彼女を雇うことを決めたのか一切説明はない。
他にも不自然な設定が目につきすぎる。
「のぞみ」の所有者である独身男が、はじめて生きて動いている彼女と対面する場面がある。独身男はさしてびっくりもせず、「お前、のぞみか?」と聞く。人形が頷くと、いきなり男はなぜビニール製の人形が動き出したのかという当然抱くだろう疑問や狼狽はすっとばして、「俺は生きてる女は苦手なんだ。心をなくしてくれないか」と頼みだす。あのさ、なんで心を持ったのか分からないのに、また元に戻ってくれ、はないだろう。
また、ビデオ屋で「のぞみ」がうっかり尖端物で肌を傷つけてしまい、空気が抜けてシューっとしぼんでしまう場面がある。それを目撃した店員は、あまり驚いた様子も見せず、急いでセロテープで傷口をふさぎ、息を吹き込む。息を吹き込まれた「のぞみ」が再び膨らんでいくプロセスはみごとで、この映画でも白眉の場面なのだが、なぜ店員がとっさにそんな行動をとれたのか一切説明がないため、感動に繋がらない。
あと、「のぞみ」がビデオ屋の店長にセックスを強要される場面がある。店長は彼女が人形であることを知らないのに、挿入してもなお、「違い」に気づかない。最近のラブドールの挿入部分(ゴム製らしい)は、生身の女性のそれと同じ感触なのかどうか、使ったことのないぼくには分からないが、いずれにしても不自然すぎる。店長の「最近の若い娘はすぐやらせるんだな」という台詞もありきたりでひどいけれど。

こういう日常の中にファンタジーを潜り込ませる映画で、いちばん大事なディテールが練り込まれていないのだ。だから、どうしても「それ、普通ありえないでしょ?」という場面が多すぎて、素直に感情移入できない。

だが、それ以上に問題なのは、中身こそ「空気」だが、充実した生を子どものように満喫する「のぞみ」とは対照的に、「心の空虚さ」を何かで埋めようとあがく孤独な人間たちの描写が、どこか型にはまっていて、リアリティを感じないことだ。血の通った人間に見えないのだ。
たとえば星野真里が過食と嘔吐を繰り返すOLを演じているが、さして「のぞみ」と拘わるわけではなく、なぜ彼女が過食症になったのか説明もなく、正直なんのために出ているのか、よく分からない。ビニール製でものを食べない「のぞみ」と対比させているらしいが、それ以上でも以下でもない。最後に彼女はある救いを手に入れるが、いかにも唐突。他の独居老人やおたく青年も同様、記号的存在でしかない。

いちばんひどいと思ったのは、「のぞみ」と恋に陥るレンタルビデオ店員だ。彼は、自分のことを「からっぽな人間だ」と言う。そのひとことが後で悲劇を招くのだが、彼がどんなふうに「からっぽ」なのかよく分からない。そもそも、ARATAの演技は普通の好青年にしか見えないので、いくら自分で「からっぽだ」と言われても、唐突に感じられる。同様に、彼がなぜ、「のぞみ」を愛するようになったのか、その動機もよく分からない。可愛い同僚を好きになるのは当然として、彼女が実はビニール人形だと知ってからも、彼はなんの葛藤も疑問もなく、彼女を愛し続ける。「心がからっぽな人間」だから「体がからっぽな人形」を愛したというのでは、あまりにも図式的すぎるし、実際、それ以上の説明はまったくなされていない。
別に、彼についての細かな設定を描け、というのではない。優れた演出者なら、彼が無言でビデオ屋の棚を整理する場面だけで、彼の内面の空虚さを描けるはずだ。

要するに、(これは、是枝裕和監督だけではなく、今の日本の映画やドラマの宿痾だと思うが)、登場人物がすべて「記号」でしかないのだ。登場人物の台詞に、どこか学生がつくったアマチュア映画のような青臭さが漂うのも、作り手が、人間を描こうとするのではなく、自分の頭の中にある図式的な観念を描こうとしているからではないか。(ここで大急ぎで付け加えておくと、是枝監督の演出の巧みさは上にあげた先行作品の比ではない。流れるようなカメラワークや、情景描写のうまさには感嘆させられた)

皮肉なことに、そんな記号的な登場人物たちのなかで、ただ一人、本来は生身の身体を持たないラブドールの「のぞみ」だけが、生き生きと血の通った存在に見える。

映画の冒頭、独身男が出かけた後、ぽつんとベッドの上に残されたビニール製のラブドールが、ふと眼を動かし、手足を動かし、いつの間にか裸身のぺ・ドゥナに変わっている場面。起き上がって窓の外を見て、微笑む。一連のシークエンスにはCGは一切使われない。ただ、ぺ・ドゥナの仕草や表情だけで表現される。人形にも見えるし、人間にも見える、その淡い境目を見事に演じきっているのだ。

続いて外に出る。最初、富司純子演じる和服の老女の後をついて歩く。真似して内股で歩く姿が見事。次に、幼稚園児のお散歩について歩く。子どもにそっくりの歩き方。ただ真似ているだけではない。はじめて人形が自分の足で歩くときはそうするだろうという見事な動作を見ているだけで、涙がこみあげてくる。よちよち歩きを初めた赤ん坊には、世界はこんなふうに映っているだろう。その彼女が、やがて恋を知り、嫉妬心を抱き、自分の存在意義に疑問を持ち始め、生と死について考え始める。監督が描きたかったであろう哲学的な命題の数々は、青臭い台詞や設定の中にはない。たどたどしい日本語を喋るぺ・ドゥナの表情だけがそれを雄弁に物語る。思想を生の形で提出するだけでは映画ではない。血肉化された思想こそが、本当の感動を呼び起こせる。

ぺ・ドゥナという女優は、あまり大げさに表情を作るひとではない。無表情であっても、その大きな眼のちょっとした動きだけで、様々な感情表現を的確にできる人だ。体の使い方も抜群に上手い。そうした彼女の資質があってこそ、心を持ってしまった人形という難しい役をこなせたのだろう。だが、それだけでは、他の俳優たちがなしえなかった(役者さんたちはそれなりに好演しているのだが)、与えられた役を記号以上の存在に仕上げることを、彼女だけがなしえたことの説明にはならない。

雑誌『ユリイカ』の「ぺ・ドゥナ特集」での是枝裕和監督の発言によると、彼女は前もって脚本を読み込み、完璧に人形の気持ちになって撮影に臨んだという。ほとんど演技指導をする必要がなかったそうだ。
彼女は『ユリイカ』でのインタビューで、韓国映画は通常4ヶ月くらいかけ、一日1〜2シーンしか撮影しないが、彼女が出た日本映画(この作品の他に『リンダリンダリンダ』に出演)は、撮影期間は1ヶ月、一日7〜8シーンもとることが普通だったと語っている。韓国映画の最近の充実と、日本映画の質的な劣化はそのあたりからくるのかもしれないが、そんな環境にあっても、彼女はきっちりと仕事をした。
是枝監督は言う。「毎朝、人形のメイクに時間がかかって大変なんですけど、メイクしていう間に台本読みながら、彼女はいつも感情移入して泣いていて、順番はぐちゃぐちゃに撮っていても、そのモチベーションの持っていき方、この人形の感情の流れを映画全体の中でどう作っていくのかが彼女の中でパーフェクトに出来ている。繊細でいながら、本当にプロフェッショナルな女優だなと頭が下がる思いでした」

たとえばこんなことがあったそうだ。人形が公園で踊るシーンがあった。ぺ・ドゥナは「ここでなぜ踊るのか、気持ちがわからない」と言ったが、一応、撮影することにした。できあがった場面は、結局編集段階でカットした。そこだけ浮き上がって見えたからだそうだが、監督がそれをぺ・ドゥナに伝えると、「でしょ」という顔をされたそうだ。
映画撮影の現場を知らないぼくが、上記の発言を元に拡大解釈するのは僭越なのでそれ以上のことは言わないが、同じ作り手でも、俳優の力量によって、ここまで作品に違いが出るものなのか。監督と俳優の関係について、ちょっと考えさせられた。

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