男が男であるために必要なこと……『トンマッコルへようこそ』(2005年、韓国)

2005年 韓国
監督=パク・クァンヒョン 出演=シン・ハギュン  チョン・ジェヨン  カン・ヘジョン

むかしむかし……といっても朝鮮半島で血で血を洗う戦争が続いていた半世紀ほど前のこと。山奥にひとつの村がありました。トンマッコル――子どものように純粋な、という意味の名前を持つその村の人々は、外界から完全に遮断され、自給自足の生活を送っていました。村人は、戦争が起こっていることを知りません。それどころか、「戦う」とか「争う」という概念すら持っていません。村長が「お腹一杯食べさせる」といういい政治をしているため、村は平和そのものです。また村人は誰かを差別することもありません。ちょっと知恵遅れの女の子もいますが、いじめたりせず、みんなで大事にしています。トンマッコルは、そんな理想郷なのです……。

この映画を好きになれるかどうかは、上に書いた設定を受け入れられるかどうかにかかっているだろう。ぼくはというと、この設定そのものには何のリアリティも感じない。黒澤明の『夢』のラストに同じような理想郷が出てきたが、巨匠老いたり、としか思えなかった(笠智衆扮する村の長老に、あんな説明的な長台詞をしゃべらせるなんて!)。だから、下手な監督が演出したら、ぼくはこの映画を嫌いになっていたかもしれない。だが、これが監督第一作という1969年生まれのパク・クァンヒョン監督は、この多分に青臭いまでに現実離れした設定を、実にセンスよく映像にしている。

監督自身語っているように、理想郷の描写は随所に宮崎アニメへのオマージュが溢れている。村の入り口を飾る石像は、『千と千尋の神隠し』にそっくり。単なるパクリや物まねではなく、確信犯的にやっているのは、宮崎アニメ常連の久石譲に音楽を依頼したことでも明らかだ。クライマックスのひとつ、猪を退治する場面は、『スイングガールズ』で上野樹里たちが猪に追われるストップモーションにそっくりの漫画的表現。
そう、監督は、現実にはありえないトンマッコル村を、あえてアニメ・マンガ風に描くことで、この映画は一種のおとぎ話だと伝えているのだ。だから、非現実な設定もすんなり心に入ってくる。

パク・クァンヒョン監督は言う。「従来の(朝鮮戦争を扱った韓国の)作品は、実際に従軍した人の経験が大きなベースになっている場合が多いですが、私は逆に従軍していない者の強みとして豊かな想像力を生かした作品をめざしました。戦争の客観視は困難だし、実際に従軍した人々にとってこの映画はあり得ない物語なんです」。1950年から3年にわたり、アメリカの支援を受けた韓国と、中国が後押しする北朝鮮の戦争は、米軍や中国軍の介入もあって、400万〜500万の人命が奪われた。その大部分は民間人だったという。戦争はいまなお法的には休戦状態であり、終結していない。今なお、朝鮮半島の人々は悲惨な南北戦争の影響を何らかの形で受けているが、それでもなお、戦争を知らない僕には戦争の実際は描けない、と割り切る態度がいさぎよい。

さて、あらすじ。奇跡的に平和を保っていたトンマッコルに、三人の北朝鮮兵士と、二人の韓国軍兵士、そして一人のアメリカ人パイロットが迷い込む。すなわち、のどかな山奥の小さな村に、戦争に参加している兵士代表が集結してしまうのだ(この段階で、中国軍はまだ参戦していない)。

北朝鮮兵と韓国兵は、互いに武器を構えて対峙するが、そもそも「戦う」という意味すら知らない村人たちには、なぜこの見知らぬ客人がにらみ合っているのか呑み込めない。銃というものすら、見たこともないのだ。緊迫した表情の兵士たちと、のどかに日常の仕事に従事する村人の対比がおかしい。そして、にらみ合いのクライマックスは意外な形で終わる。
空からポップコーンが降ってくるのだ。

この映画では、武器と食べ物が対比されている。人の命を奪う武器と、人の命を養う食べ物。村の食料貯蔵庫が、兵士が投げた手榴弾で爆破され、蓄えてあったトウモロコシが熱でポップコーンになり、マナ(キリスト教の概念で、空から神様が人々に与える食べ物)のように、兵士たちや村人たちに降り注ぐ。緊張はとけ、やがて兵士たちは次第にうちとけてくる。そのきっかけを作ったのは、食べ物だ。

ここで、面白い仮説を紹介したい。お菓子研究家の福田里香さんが提唱する「映画やドラマにおけるフード理論」だ。以下の動画を見ていただきたい。
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まさにこの映画は、福田さん言うところの「フード映画」だ。六人の兵士たちは、村を襲ってきた凶暴な猪を、力を合わせて退治する。その猪肉を六人がわけあって食べる。草むらで並んで野糞をしながら語り合う。食べることと排泄すること。人が生きていく上でもっとも重要な二大要素を共有することで、彼らは胸襟を開いて語り合える仲間になるのだ。

その村を、もっとも恐ろしい「敵」が襲う。トンマッコル近辺に北朝鮮軍が潜んでおり、しかもアメリカ軍兵士が拉致されている――。誤った情報に接した米韓連合軍が、米兵救出のために特殊部隊を派遣し、さらに村を焼きはらうためB29爆撃機の編隊を出動させるのだ。
六人の兵士たちは、村人を守るため、米韓軍と戦うことを決意する。

韓国映画を語る際、どうしても政治と絡めないと気が済まない人たちがいる。最悪の例は、何度かリンクを張った大馬鹿映画評論家だ。確かにこの映画が作られた時、当時の韓国政府は反米親北ムードを煽っていた。この映画はそんな政治的プロパガンダだと言うことで、無益に韓国を貶めたい馬鹿が日本にはいる(むろん、他の国にもいるだろう。外部に仮想的をつくって攻撃することで、自尊心を満足させたい最低な手合いが)。
もともとこの映画は、舞台演劇が原作なのだそうだ。ひょっとしたら、原作はそうした政治的メッセージが強い作品だったのかもしれない。だが、若いパク・クァンヒョン監督は、この映画が政治的プロパガンダに堕さないよう、繊細な配慮を欠かさない。

村を襲撃する米韓特殊部隊を本当に「悪役」にしたいなら、手法的には簡単だ。彼らを、顔の見えない敵――人間的感情のなさそうな殺戮マシーンにしてしまえばいいのだ。だが、そんな安っぽさを、この映画は拒否する。
米兵救出にやってきた特殊部隊は、深夜に輸送機からの落下傘降下を敢行する。真っ暗な深夜の落下傘降下は命がけで、実際に十人の兵士のうち半数が死ぬ。そのプロセスを映画はきっちりと描く。特殊部隊の兵士たちは村人を恫喝し乱暴を働くが、彼らが戦友を失ったばかりで、しかもたった五人で敵兵が潜んでいる(とされる)村に入ったという極限状態に置かれていることを考慮すれば、理解しうる範囲の「悪行」にとどめられている。
さらに、飛来したB29爆撃機を六人の兵士が迎え撃つ場面では、彼らの銃撃を受け、恐怖におののくパイロットの姿も描かれる。彼らとて、同じく悲劇的状況に追い込まれた人間なのだということを、さりげなく現しているのだ。

この映画がいちばん伝えたいことは、愚劣な政治的メッセージではない。かといって、「みんな、トンマッコルの村人のように生きようよ」と言いたいのかというと、それも違う。監督が、トンマッコルという村を、どこにもない世界(ネバーランド)として描いていることでも明らかだ。では、何が言いたいのか。

おそらく、見る人によって受け止め方は違う。優れた作品とはそういうものだ。ぼくが受け止めたのは、「男はなんのために戦うのか」というメッセージだ。

トンマッコルに迷い込んできた北朝鮮兵と韓国兵のリーダー二人は、心に深い傷を負っている。押尾学に似た(でもやることは卑怯者の押尾とは正反対の)北朝鮮軍将校は、行軍の途中で、怪我をした兵や女性兵など、足手まといな人たちを射殺させている。そんなことはやりたくない。だが、部隊には朝鮮労働党から派遣された政治将校が監視の目を光らせている。金日成率いる朝鮮労働党が絶対の北朝鮮社会では、プロの軍人より、党員の命令が絶対だ。逆らえば殺される。人民の敵を倒すために従軍したはずなのに、部下を殺してばかりじゃないか。そんな状況に嫌気がさした彼が、「負傷兵を射殺しろ」と命じる政治将校に初めて反抗した時、敵に襲われて部隊は全滅、彼と二人の部下だけがなんとか生き延びてトンマッコルにたどりつくのだ。

一方の韓国側の将校は、脱走兵だ。敵の戦車部隊を食い止めるため、橋を爆破せよと命じられた。橋にはおびただしい避難民がいる。泣き叫ぶ子どももいる。彼は「できません!」と拒否するが、上官は「やれ!」と強要する。彼はついに、爆弾のスイッチを押した。戦争とはいえ、本来自分たちが救うべき自国民を殺してしまった。そのことに彼は深く傷つき、ついに脱走する。命からがら逃げ延びた先がトンマッコルだった。

理想郷トンマッコルで、背負わされた立場を越えて分かり合えた二人。だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。お前、どうするんだ? 行く場所なんかない。韓国軍将校は、部隊に戻れば即銃殺だ。北朝鮮軍将校も同じ。当時、マッカーサーの仁川上陸作戦の成功によって、半島の大部分は米韓連合軍が制圧している。残りわずかな安全圏にたどり着くのはまず不可能だ。俺たち、帰る場所がないんだな。どうすりゃいいんだ? いっそここにとどまるか。いや、それはできない。たとえ生き残っても、守るべき人々を殺してしまった記憶からは逃げられない。

故・司馬遼太郎はこんなことを書いていた。軍隊とは、国民を敵から守るもののはずだ。だが、実際の軍隊は、しばしば軍隊自身を守るため民間人を犠牲にする。戦争が国をあげての総力戦となった20世紀においては、非戦闘員を戦争に巻き込んではならないというルールは簡単にふみにじられる。21世紀となったこんにちも、例外ではない。

そんな近代戦の不条理によって心にトラウマを負わされた彼らにとって、米韓軍の襲撃は、むしろ救いだったのではないか。

彼らは、民間人を守るという兵士本来の役目に戻ることができるのだ、いまや、俺たちには、守るべき存在がいる。あの村人たちだ。彼らを助けるために、命をかけよう! たとえその結果死んでしまっても、自分の人生に意味を持たせることはできるじゃないか!

彼らは戦う。部下たちも、リーダーとは異なるそれぞれの動機で、戦いに参加する。

動物界において、男(オス)は、メスに子どもを生ませるだけの存在だ。たとえばカマキリのオスは、メスと交尾した後、メスに喰い殺される。オスの虎は、メス虎に子どもを生ませる以外、なんの役目も与えられず、集団から離れた場所で無意味にぶらぶらしている。敵から集団を守るのも、メスの役目だ。ただ、人間のオスには、受精させる以外の役目が与えられている。女子どもを、老人を、戦う術を知らないひとびとを守るという役目が。

男が、男であることの存在意義はそこにしかない。たとえ敵を殺す兵士でなくてもいい。家族のために嫌な仕事に耐えて働くお父さんたちも同じだ。

この映画は、そんな男たちの戦いを、ファンタジーという皮で包んだ、ひとくち目は甘いけれど、ビターな味わいもあるお菓子なのだ。

トンマッコルへようこそ [DVD]

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トンマッコルへようこそ (角川文庫)

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