過ちの償い方……『グラン・トリノ』(2008年、アメリカ)

2008年 アメリ
監督・主演=クリント・イーストウッド 出演=ビー・バン アーニー・ハー


クリント・イーストウッドの近作は、決して「泣ける」映画では決してない。俳優の顔ぶれも地味で、派手なアクションもない。それでいて、見終わったらずしりと重いものが胸に残る。
グラン・トリノ』もそうだった。妻と二人、DVDで見たのだが、見終わった後は無言で、どちらからともなく自分の部屋に引っ込んだ。泣いている顔を見られたくなかったでもあるが、それ以上に一人きりになりたかったのだ。どんな言葉を吐こうが、こみあげてくる感動以上の何かを整理することはできない。独りでかみしめるしかない。

今更言うまでもないことだが、イーストウッドくらい、人種や男女、老若といった二項対立からくる葛藤を巧みに描ける監督は少ない。この『グラン・トリノ』にもそれはあてはまる。一番わかりやすいところでは、主人公が体現する古き良き(そして滅び行く)アメリカと、若い(伸びゆく)アジア。老人と少年。白人と異人種。それにもうひとつ、ジェンダー(性差)について取り上げたい。

これはあまり語られてないことだと思うが、この物語の前半を動かしているのは、スーというアジア人少女だ。映画はあくまでもイーストウッドの目線で描かれているために目立たないのだが、イーストウッド演じる主人公も、彼と交流を深めるアジア人少年も、スーという健康的で聡明な少女の掌の上で踊らされているといっても過言ではないと思う。

ひとつ、スーの目線でこの映画を語ってみよう。

スーは、タイ、ラオスベトナム国境の山岳地帯に住んでいたモン族だ。彼女が生まれる前、ベトナム戦争の際にアメリカ軍はモン族を味方に付け、共産主義勢力と戦わせた。ベトナムラオス共産主義化してからは弾圧を受け、彼らはアメリカに亡命せざるを得なかった。
スーの一家がすみついたのはデトロイト。かつてアメリカの象徴だった自動車産業のメッカだった土地だ。だが今では、自動車産業の衰退とともにスラム化し、住んでいるのは黒人、ヒスパニック、そしてアジア人がほとんど。生活は苦しく、いたるところにギャングがいる。
祖母と母親、そして弟のタオと四人暮らしのスーは、そんなすさんだ環境のなかでも、元気いっぱいに生きている。活発で聡明な彼女は、ちゃんと学校に通い、白人の彼氏もいて、生活をエンジョイしている。ちょっと気になるのは、弟のタオのことだ。優しい性格が災いして引っ込み思案。おばあちゃんは「この家には男親がいないから、女みたいな性格になっちゃったんだよ」と言うが、そのタオに、悪い連中が寄ってきている。従兄のモン族ギャングのリーダー・スパイダーだ。「俺たちの仲間に入れよ」としきりに誘う。「モン族の娘は大学に行き、男は刑務所に行く」。女性は、どんな土地でもすぐなじむ。男はそうはいかない。同じ人種で固まって悪さをするのが男らしいと勘違いしているのだ。どうがんばっても俺たち異人種は出世なんかできねーよ、と努力しようとしない。(日本にも数千人のインドシナ難民が定住しているが、やはり女性の方が順応性が高いそうだ。日本での生活になじめず悶々としていたカンボジア難民の男性が、隣近所と和気藹々とつきあっている妻子を惨殺した事件が実際にあった)。

なんとか弟にちゃんとしてほしいと願うスーの前に、一人の男が現れる。もちろん、クリント・イーストウッド演じるウォルト・コワルスキーだ。

ある夜、また不良どもがやってきて、弟のタオに仲間になれとしつこく誘ってきた。隣のウォルトじいさんが大事にしているバカでかいアメ車を盗めとそそのかしている。「弟にかまわないで!」と抗議しても、「うるせーよ、ひっこんでろ!」とわめくだけ。騒ぎが大きくなったところで、隣のウォルトじいさんが、ライフルを構えて不良どもを一喝した。「俺は、朝鮮でお前らみたいなアジア人を何人も殺してきたんだ! 出て行け!」

それから数日後、学校からの帰り道、スーが黒人のちんぴらどもに囲まれたところに、ウォルトが通りかかる。「絶対に怒らせてはならない男がいる。それが俺だ」とダーティハリーばりの台詞を吐きながら、胸からハンドガンを引き抜いて追い払ってくれた。一日中、ベランダでビール呑んでいる頑固じじい。変な人と思ってたけど、結構やるじゃない。車で家まで送ってくれた。いきなりお説教しはじめたのは、死んじゃったお父さんにそっくり。お父さんも何かとうるさい人だったけど、このじいさんも同じね。「東洋人はもっと賢いはずだぞ。気をつけろ」。わかったわかった。ちょっとうざいけど、でもなんだか嬉しい。「君はいい娘だな」って言ってくれた……。

翌日、スーの家でパーティが開かれた。近所のモン族の人々が食べ物を持ち寄って。隣のウォルトじいさんは、相変わらずベランダでビールを飲んでる。声をかけると、「よう」と返事してくれた。朝からビーフジャーキーとケーキしか食べてない。奥さんを亡くして一人暮らし。うちに来ない、と誘ったら、ついてきた。最初はとまどっていたけど、おいしいモン族料理を食べてご機嫌。よかった、喜んでくれて。

だが、そのときウォルトはすでに、病に冒されていた。急に嘔吐を催しトイレに駆け込むウォルト。スーが気遣わしげに追う。ウォルトは血を吐いた。だが気丈に「なんでもない」と宴席に戻る。

ウォルトは、元自動車工。朝鮮戦争に従軍し、帰国してからはひたすらフォードで働いてきた。アメリカ製自動車が世界中で売れていた時代。第二次世界大戦後、超大国となったアメリカの威勢を象徴していたのが、まさにフォード車だった。だが今や、息子はトヨタのセールスマン。子供も孫も、頑固なウォルトを敬遠してろくによりつきもしない。妻を亡くし、朝鮮戦争で降参しかけた若い敵兵を撃った罪悪感に苛まれるウォルトは、孤独だ。もちろんそんなアメリカの栄光と影を一心に背負った老人の苦しみを、若いスーが理解できるはずはない。

ただ、彼女は思う。この人だったら、タオの父親がわりになってくれるんじゃないかしら?

彼女がそう思いついた場面は描かれないが、パーティの翌日、スーが母親と一緒に弟を連れて、ウォルトの家に押しかけた場面のやりとりから、それは明らかだ。
スーは言う。「弟は、あなたの車を盗もうとしました。その謝罪として、あなたの家で働きます」
ウォルトは迷惑そうに、そんな必要はない、ほっといてくれ、と拒絶する。
スーはなおも言う。「モン族のちゃんとした家庭では、家族が誰かに迷惑をかけたら、その謝罪をするのがしきたりなんです」
あくまでも拒絶するウォルト。冗談じゃねえよ、こんな役立たずなアジア小僧に仕事をさせるほうが大変なんだぞ。
タオがぼそりと言う。「俺、別にいいんだけど」
すると、スーと母親が声を揃えて叱りつける。
「あんたは黙ってなさい!」

狼狽えたのはウォルトじいさんのほうだった。彼は言う。
「わかったよ、明日から来い」

なんちゅう気の強い女どもだ。あんな母親や姉と一緒に暮らしていたら、こいつがへたれになってしまうのも無理はない。ここは、俺が一肌脱ぐしかねえか。

かくして、老いた元自動車工は、おどおどと自信なさげなアジア人少年相手に、大人の男へになるための修業を始める。まず、家の修理をさせよう。庭の芝刈り、壁のペンキ塗りは男の仕事だが、うちはやってほしくない。そういえば、向かいの家の雨樋が壊れてるみたいだな。このガキに直させよう。懸命に働くタオの姿に、近所のモン族家庭から、うちも直してくれ、と依頼が来る。頼りにされている……。ウォルトは次第に、自分が生きていることに価値がある事を見いだしていく。俺はアメリカのために戦い、働いてきた。だが、今やアメリカの自動車産業は衰退し、勢いがいいのはジャップの車だ。家族も寄りつかず、友人も次々に死んでいく。俺はこのまま終わるのかと思ってきたが、隣の風変わりな米食い虫どもによって、生き甲斐を見いだすことができた。教えれば教えるほど、こいつはどんどん大人になっていく。嬉しいじゃねえか。明日は何をやらせようかな……。

そんなウォルトとタオと見ながら、スーは思ったはずだ。こんなにへなちょこでどうなることかと心配してた弟も、あのじいさんに指導されるようになってから、結構頼もしくなったじゃない。今度、好きな女の子を誘ってデートだって。やるなあ。やっぱり男の子には父親が必要なのね。ウォルトじいさんも、そんなタオに眼を細めて嬉しそう。うまくいったわ。今日はうちで、タオの彼女も誘ってバーベキュー。ウォルトじいさん、自分でステーキを焼いて得意そう。

そう。スーのおかげで、みんなが幸せになった。ところが……。

そのスーを悲劇が襲う。

相変わらず、モン族のギャングともはしつこく、タオに仲間になれとつきまとう。こういう連中がいたら、タオは本当に一人前にはなれない。そう思ったウォルトは、アメリカ式のやり方でタオを守ろうとする。しょせんいきがってるガキだ。朝鮮で死線をくぐり抜けてきた俺のほうが、戦い方は心得ている。不意打ちを食わせ、馬乗りになってたたきのめし、こう脅す。「タオに近づいたら、殺すぞ!」。彼らは屈辱を晴らすために、卑劣な手段を使った。スーをレイプしたのだ。
スーが出かけたまま帰ってこない。そう聞いてウォルトは思う。ひょっとして、俺があいつらをぶちのめしたから……? 予感は的中した。

スーは帰ってきた。顔はアザだらけ。スカートの裾から伸びた脚には血がこびりついている。呆然と虚空を見つめるスーは、神々しいまでに無惨だ。あれだけ饒舌だった彼女は、この場面以降、一言も口をきかない。女性にとって最大の苦しみと辱めを受けた彼女は、黙って耐えるしか術はない。
そんなスーに、ウォルトは深く打ちのめされる。

ウォルトは、アメリカのために戦い、働いてきた。アメリカのために、朝鮮で敵兵を殺した。アメリカのために自動車を作った。そんなアメリカは彼に報いてくれなかったが、彼はアメリカ人としての誇りを忘れなかった。アジア人少年にアメリカ式男らしさをたたき込んだ。その結果が……あの利発なスーを沈黙に追いやった。

傷ついたスーの顔は、アメリカ人だけではなく、世界中の男たちが引き起こす愚かな争いによって傷ついた全ての女性や子供たちのシンボルだ。イラクで、パレスティナで、ベトナムで、沖縄で、世界のどこかで戦争が起こるたびに、同じような映像をぼくらはいやというほど見せられた。カメラの前で傷ついた姿をさらけだした彼女たちは、つい前の日まで、家族や愛する者のために、時には強引に、時には思慮深く、物理的な弱さを心の強さで補って、懸命に生きてきたはずだ。

スーへの償いのために、ウォルトは命がけの行動に出る。あの不良どもをぶち殺すのは簡単だ。だが、そんなやり方は、復讐の連鎖、血まみれの無限ループを生み出すだけだ。冷静になれ。考えろ。考え抜いた結果、彼はある作戦を思いつく。これしかない。

かつて、ダーティー・ハリー/ハリー・キャラハンとしてどでかいマグナムで悪人どもを退治してきたクリント・イーストウッド/ウォルト・コワルスキーは、全世界すべての愚かな男どもの罪を背負って、ギャングどもの巣窟へと向かう。姉が受けた屈辱に頭に血が昇ったタオをこう諭して。
「人を殺したら、どういう気分かだと? 最悪だ。今でも俺は、殺した相手の顔を毎晩夢に見る。そんな思いをお前には味わわせたくない。お前は来るな。俺が決着をつける」

クリント・イーストウッドは、『ミリオンダラー・ベイビー』でよかれと思って、立ち直れないくらいの傷を女性に負わせてしまった男を演じた。『硫黄島からの手紙』でおびただしい兵士の死を背負いつつ、信念を貫く男を描いた。老トレーナー・フランキーや日本軍の栗林中将の行動が果たして正しかったかどうか、答えなんてない。最後に正しい答えを示せるほど、人間は賢くはない。でも、人生の最後にこう言うことはできるんじゃないか。
「俺は間違っていた。間違った人生を歩んできた。誰でもそうだ。でも、間違って歩んできた俺の人生から、お前は何かを学べるかもしれない。お前にそれを学ばせるために、俺は命を張る」

そういう本当にかっこいいお手本になれる男を、弟のために見いだしたスー。素敵な笑顔と快活なおしゃべりが戻ってくる日は遠くないはずだ。ウォルトの葬式に、アザの残る顔をさらしつつ、誇り高く民族服に身を固めて臨んだ彼女の姿に、そう確信できた。



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