極限状態で自分らしくあるということ……『硫黄島からの手紙』(2006年、アメリカ)

2006年 アメリ
監督=クリント・イーストウッド 出演=渡辺謙 二宮和也

映画の最低条件の一つは「それらしく見えること」だと思う。その意味で、アメリカ人のクリント・イーストウッドが日本人キャストで製作した『硫黄島からの手紙』は十分賞賛に値する。
「それらしく見える」というのは、たとえば戦争映画であれば、出てくるキャラクターがちゃんと昭和の日本兵に見えるということだ。スクリーンに映っているのが特攻隊員のコスプレをしたキムタクや潜水艦長のコスプレをした玉木宏ではなく、そこに映っている日本兵をたまたま演じているのが二宮和也でなければならない。この差は小さいようで、大きい。
ネット上では、二宮和也がどうしても現代っ子っぽく見えるという批評が眼につく。確かにジャニーズ調というのか、斜めに構えただらしないイントネーションは気になるが、いくらイーストウッドでも、日本語でしゃべる日本人俳優の台詞回しを指導することはできないだろう。そんなことより、画面に現れた二宮和也は最初から、ふだんテレビでチャラいキャラを不満そうに演じている二宮和也ではなく、内地に懐妊した妻を残して召集された日本兵に見えるのが大事なのだ。他の俳優たちも同様だ(特に、いつもは心のこもらないオーバーアクトに辟易させられる中村獅童でさえ、自然にやや頭のおかしい日本軍将校になっている)。

最近、イーストウッドのインタビュー集を読んだ。印象的だったのは、イーストウッドはほとんどのシーンをワンテイクですませるのだという。事前に入念にリハーサルをやるわけではない。「俳優のテンションを考えれば、それがいちばんいい」と彼は言うが、それはおそらく最初のテイクの時に俳優が一番気持ちの入った演技ができるという意味ではあるまい。むしろ、余計なことを俳優にさせないためではないか。
最近の日本映画やドラマに顕著だが、基本的な実力もないくせに、変にテンションの高い演技をしたがる俳優が多すぎる。しかも、自然体という名のだらしない仕草や言い回しでやろうとするから最悪なのだ。
演出も同様で、クライマックスではやたらと過剰にカメラを動かし、音楽をやかましく鳴らすくせに、さりげない会話場面などでは単なる手抜き仕事が目につく。そういう場面を丁寧に描くことが後の感動につながっていくという映画の呼吸をわかってない作品が多すぎる。
イーストウッドは言う。「しっかりした脚本さえあれば、過剰な演出なんかいらない」
そう。『硫黄島からの手紙』だけでなく、近年のイーストウッド監督映画『ミリオンダラー・ベイビー』にしても『グラントリノ』にしても、実にオーソドックスでケレン味のない場面を丁寧につなげていきながら、いつしか見る側は個々のキャラクターに感情移入し、最後に深い感動が押し寄せてくる構造になっている。しかも、単なる「泣かせ」ではない。ずっしりと重い何かを残すのだ。

硫黄島からの手紙』は、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍相手に(兵力はアメリカ軍が六万、日本軍は二万)一ヶ月以上にわたって持ちこたえ、日米の戦史研究者から、「太平洋戦争に於ける日本軍人でもっとも優秀な指揮官」として高く評価される硫黄島守備隊長・栗林忠道中将(渡辺謙)と、架空の人物である西郷一等兵二宮和也)の二人を軸に展開される。
アメリカ駐在経験を持ち、合理的な思考の持ち主である栗林中将は、勝ち目のない硫黄島での戦いを「一日でも長く持ちこたえることで、本土の人々を一日でも長く生き延びさせる」ためのものと割り切り、それを貫く(実際、硫黄島が占領されたことで、本土空襲が激化する)。浜に塹壕を掘り、水際で敵を食い止めるという従来の作戦を練り直し、島の至る所に地下坑道を掘り、上陸してきた敵を消耗させることで抵抗を長引かせることにしたのだ。古参の参謀たちは栗林を「アメリカかぶれ」と批判するが、兵たちへの無用の体罰を禁じる栗林に、西郷ら下級兵士は信頼を寄せていく。
そしてアメリカ軍がやってくる。派手な戦闘シーンは少ない。ただ、暗い坑道の中で、間断なく続くアメリカの艦砲砲撃に怯え、精神をすり減らしていく日本兵の姿が淡々と描かれる。耐えられなくなった将校たちは「玉砕」を進言するが、栗林は受け入れない。なるべく自軍の兵の損傷を避けようと策を練り続ける。だが、日に日に指揮命令系統が寸断され乱れていくなか、ついに自決したり、勝手に無謀な突撃を試みる部隊が相次ぐ。

わずかに光が差し込んでくるだけの暗い坑道内で展開されるのは、「極限状態において人間はどこまで平常心を保てるか」という心理ドラマだ。日本軍特有の、生きて虜囚の辱めを受けないためのバンザイ・アタックや手榴弾による自決は、ファナティックな狂気などではなく、極限状態からの逃避であり、「自分がここにいたら、一刻も早く死んで楽になりたくなるだろうな」とさえ思えてくる。そして、部下に玉砕や自決を許さない栗林のほうが異常にすら見えてくるのだ。
どんどん追いつめられていくなか、たまたま司令部で栗林の側にいることになった西郷一等兵は、そんな指揮官の姿に畏敬の念を抱く。もともと内地でパン屋を営んでいた彼は、パン焼き器を供出させられたことで軍を恨んでいる。映画の冒頭、「こんな島いくら守ったところで、なんの価値もない」と不平たらたらの新兵として登場した彼は、いつの間にか一人前の兵士の顔になっている。
彼は、栗林の姿に何かを見たのだ。

守備隊は全滅し、栗林も戦死する。そして西郷は生き残る。生き残った西郷は、虚脱しているが、その面構えから彼が、このむごすぎる戦闘で何かを得たことを示唆している。同じ顔をどこかで見た。

そう、『グラントリノ』のモン族少年タオが、最後に見せる顔だ。

大事な姉を不良少年たちに辱められ、「奴らを皆殺しにしてやる」と復讐に燃えるタオを、イーストウッド演じる老人ウォルトは「頭を冷やせ!」と一喝する。タオの姉が暴行された原因を作ったのは他ならぬウォルトだった。物理的な力による復讐は、暴力の連鎖を生むだけだと悟ったウォルトは、自らも「頭を冷やし」、これしかないという手を思いつき、見事にやりとげる。絶望的な状況のなかで、合理的でありつづけようとした栗林中将のように。
そんな栗林の側近くいた若い西郷だからこそ、彼は生き残らなければならないのだ。ヤンキー魂、武士道、名称はなんでもいい、男として一番大事にしなければならないことを身をもって示した先輩の意志を、タオにせよ西郷にせよ、受け継いでいかなければならないからだ。

イーストウッドが偉大なのは、栗林のように極限状態のなかでも自分を見失わないでいられる者がアメリカ軍の方にもいることを、さりげなく描いていることだ。
栗林の死を知った西郷は独り、丸腰でアメリカ軍の小隊につっこんでいく。捨て身の相手に怯えた若い米兵たちは悲鳴をあげるように小隊長に訊ねる。「撃ってもいいですか?」。小隊長は許さない。「撃ってはならん。生きて捕らえるんだ」。
栗林のような男はアメリカ軍にもいた。おかげで、西郷は生きながらえた。彼を生きて妊娠中の妻のもとへと返してあげられただけでも、栗林は何らかの役目を果たした。人間が生きて何かを残すとは、そういうことではないか。

硫黄島からの手紙 [DVD]

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