未完の父殺し……『コクリコ坂から』(2011年、東宝)

2011年、東宝 スタジオジブリ
脚本=宮崎駿 監督=宮崎吾郎 声の出演=長澤まさみ 岡田准一



一昨年の夏に公開されたとき、ぼくは観なかった。言うまでもなく宮崎吾郎さんの前作『ゲド戦記』の出来映えから、わざわざお金を払って観る気になれなかったからだが、家族がレンタルDVDを借りてきて、「そんなに悪くないよ」というので観た。観ているうちに、複雑な気分に襲われた。さしてわくわくさせられないストーリーや、ジブリ作品であるとは信じられないアニメーション・クオリティの低さや、吹き替えの素人声優たちのへたくそな台詞回しに関してではない。「そもそも、なぜこの作品を、(宮崎駿さんではなく息子の)吾郎さんが作らねばならなかったのだ?」という思いが、苦々しく募ってきたからだ。


以下、敬称略です。


高橋千鶴の原作マンガを、宮崎駿が脚色したあらすじは、以下のとおりだ。

舞台は昭和38年、横浜の高校に通うヒロインの松崎海(声・長澤まさみ)は、同じ高校の新聞部部長・風間俊(岡田准一)と知り合い、心を寄せるようになる。新聞部をはじめ文化系サークルの部室棟「カルチェラタン」が老朽化を理由に取り壊されそうになっていた。海と俊、そして生徒会長の水沼史郎(風間俊介)は、「カルチェラタン」を保存するために奔走する……。

他に、海と俊は実は血のつながった兄妹ではないかという「冬のソナタ」じゃあるまいし的展開もあるが、正直どうでもいい。宮崎駿は、どちらかというと淡々とした味わいの学園恋愛ドラマに、「カルチェラタン」撤去をめぐる、生徒たちと学校側の「闘争」という要素を付け加えた。
言うまでもなく「カルチェラタン」は、パリにある学生街で、1968年(この物語の4年後)ソルボンヌ大学の学生達を中心とした学生闘争で「解放区」を出現させたことで有名になった場所だ。日本でも同年、全共闘の学生たちが「神田を日本のカルチェラタンにせよ」というスローガンの下、駿河台の道路に大学から持ち出した机でバリケードを築いた。
実を言うと、「カルチェラタン」という言葉は1968年のパリの学生運動で広まった言葉であり、1963年の横浜の高校の部室棟に名付けたとは思えないのだが、宮崎駿がそのあたりの細かな時代考証にこだわらなかったというわけではない。
むしろ、この作品は1963年でなければならなかった。この年は、宮崎駿東映動画に入社した年だったからである。


ご自身で語っているが十代の宮崎駿は、手塚治虫にあこがれてマンガを書く、どちらかというと暗い青年だったらしい。学習院大学時代は児童文学サークルに所属しつつマンガを書き続けたが、卒業時、漫画家の夢を断念して東映動画に入社した。中学三年生のときに観た東映動画白蛇伝』に号泣した思い出も手伝ってのことだった。
入社後、宮崎は結成された東映動画労働組合の書記長に就任する。ちなみに委員長は高畑勲で、二人の名コンビはこのときの組合活動から生まれたようだ。
そういう知識をもって観ると、『コクリコ坂から』の風間俊と水沼史郎は、高畑・宮崎コンビニ見えなくはない(ビジュアルはだいぶ違うが)。また、十代の頃あまり女性にもてた形跡のない宮崎が、組合活動をはじめてしばらく後、同僚の女性アニメーターと結婚するというのも、風間と海の関係を匂わせる。
要するに、この作品で描かれる主人公たち三人の存在は、東映動画時代の宮崎の回想が強く投影されていると考えて間違いないと思う。作品を見ながらそう確信したとき、このアニメを監督しているのが、宮崎駿の息子である吾郎であることに気づいて、いっきに嫌な気分にさせられた。


嫌な気分が頂点に達したのは、海と俊、そして史郎が、「カルチェラタン」取り壊し中止を訴えるため、学校理事長を東京の会社に訪ねる場面だ。徳丸という名前の理事長が社長をやっているその会社の壁には、『アサヒ芸能』のポスターが貼ってある。そう、徳丸理事長とは、徳間、すなわちジブリの大スポンサーだった徳間書店社長の徳間康快のことだったのだ。


宮崎駿が、現在の巨匠と呼ばれるまでには、順調でない道程があった。彼が東映動画に入社してほどなく、手塚治虫手塚プロを立ち上げ、大勢のアニメーターを東映動画から引き抜くが、宮崎駿には声がかからなかった(宮崎が、手塚治虫の死後に書いた手塚批判のエッセイは有名だ)。高畑勲の下で『アルプスの少女ハイジ』などの名作アニメで大きな役割を果たすが、監督として一本立ちしたのは1978年のテレビアニメ『未来少年コナン』で、すでに37歳、決して早い出世ではなかった。翌年、先輩の大塚康生の斡旋で『ルパン三世 かりオストロの城』で劇場長編デビューするが、今でこそレジェンドとなった『カリ城』も、当時は歴代『ルパン三世』劇場版で最低の客の入りで、しばらく劇場用作品の監督としては声がかからなくなった。
そんな宮崎さんを救ったのは、言うまでもなく、徳間書店が刊行していた『アニメージュ』の鈴木敏夫(現ジブリのプロデューサー)らだった。劇場用アニメに進出しようとしていた徳間康快社長の決断で、『風の谷のナウシカ』(1984年)が世に送り出され、翌年徳間書店の出資でスタジオジブリが設立される。その後の活躍は言うまでもない。
徳間康快は、いわば巨大な才能と自負心を持て余しながら世間に認められなかった宮崎を、巨匠の地位までおしあげた大恩人だ。ここ数年、自分の死をしきりに口にするようになった宮崎が、その作品に徳間康快への感謝の気持ちをこめたくなったとしても無理はない。


アニメのなかの徳間社長ならぬ徳丸社長は、豪快でものわかりのよい人物で、海たちの懇願をあっさりと受け入れ、「カルチェラタン」はぶじ保存されることになる。
こうした「水戸黄門」方式といおうか、「デウス・エキス・マキナ」方式(古代ギリシャ演劇で、話が煮詰まると天井から神様がおりてきてあっさり解決させる)は、宮崎がもっとも嫌った手法のはずだ。それをなぜ、あえて徳間康快水戸黄門役を演じさせたのか。
劇中、徳丸理事長は平日にもかかわらず東京にやってきた高校生三人に「エスケープか。わしもよくやったよ」と笑うシーンがある。徳間は早稲田大学にかよっていた学生時代、社会主義運動に従事していた。1943年に読売新聞に入社するが、戦後、労働組合運動に身をいれすぎて退社に追い込まれている。
そういえば、徳間と並んでジブリの後盾だった日本テレビの故・氏家斉一郎は、読売新聞の渡辺恒雄とともに戦後東大で共産党メンバーとして学生運動に従事していた。ジブリは、元は左翼活動に従事し、後にはどちらかというと保守的言動が目立ったメディア人たちによって支えられていたのだ。


1967年生まれの宮崎吾郎に、全共闘時代や学生運動華やかなりし頃への思い入れがあったとは思えない。よく言われていることだが、設計事務所につとめるサラリーマンだった吾郎が、なぜか鈴木プロデューサーに口説かれて監督した『ゲド戦記』の冒頭は、主人公が父親を殺害するシーンから始まる。これは吾郎の父・駿に対する「父親殺し」であり、偉大なる父親の幻影に悩まされる吾郎の複雑な思いが投影されているのは間違いないと思う。ジブリ作品にも似合わない『ゲド戦記』の暗く冷たいトーンは批判にさらされたが、間違いなく宮崎吾郎の作品だった。


そんな吾郎が、父親の自らの過去への思い入れだけで作られた作品の監督を務めさせられたのだ。


作品中に吾郎オリジナル要素を見いだすのは難しく、あえていえば「ジブリ印」を(劣化しつつも)継承せねばという思いしかない。
男の子は、内なる父親を殺し、乗り越えていくことで自立すると言われる。『ゲド戦記』で父親殺しを試みた吾郎が、本当の意味で自立した作品を見せる日は来るのか。同世代として無関心ではいられないが、それより気になることがある。


作品の舞台となる1963年に16〜17歳だった高校生たちは、その後の全共闘闘争で中核となる世代だ。彼らの多くは1968年の東大落城(安田講堂事件=闘争の終了)とともに運動を離れるが、その後も運動に従事しつづけた人たちは、内ゲバで自滅し、挙げ句の果てにあさま山荘事件を引き起こした。雪山で十数名が「総括」という名の下に殺されたのだ。
そのことを、後盾である読売新聞の意向に逆らって反原発的言動を繰り返した意気盛んな宮崎駿は、どう考えているのか、こののんきなアニメ作品からは微塵も伝わってこないのだ。



↓『コクリコ坂から』予告編


↓『ゲド戦記』予告編