スポーツ映画における「敵」の存在について……『Rookies 卒業』『インビクタス 負けざる者たち』『私たちの生涯最高の瞬間』


 昨夜、テレビで『Rookies 卒業』(2009年、平川雄一朗監督)を放映していたので、観た。昨年度日本最大のヒット作だが、ぼくにとって信頼すべき評論家や映画好きがこぞってけなしていただけでなく、友だちの野球少年と見に行った中1(当時)の息子までが「ばかばかしくて笑いそうになった(けど、隣で泣いてるおばさんに睨まれたので我慢した)」と言っていたので、わざわざ金を払って映画館に観に行ったりはしなかった。実際、ひどい映画だった。作り手は野球について何も知らないのではないかとさえ疑ったのだけれど、同時に、「スポーツ映画における『敵』のあり方」について、ちょっと考えさせられた。

 これは、ライムスター宇多丸師匠がすでに指摘していたけれど、『Rookies 卒業』には、敵というものが存在しない。一応相手がいることはいるが、背景にすぎない。原作まんがでは、敵チームもきちんと描写され、とくにエースの川上については個人的に背負っているものも詳細に描かれるのだが、映画版では投げる機械にすぎない。クリント・イーストウッドが『ミリオンダラー・ベイビー』で喝破したように、試合に勝つということは、相手の尊厳を打ち砕くことでもある。だからこそ、試合中のマナー、相手に対する礼儀は尊重されるべきなのだが、この映画の主人公たちのマナーは最低だ。相手に悪態をつくとかの無礼な言動をするわけじゃない。とにかく彼らは、自分たちの都合で平気で遅延行為を行う。
 象徴的だったのは、キャッチャーが自打球を指にあて、怪我するシーン。チェンジになったらすぐに守備につかなきゃならないのに、なぜか彼は、味方に知られないよう、こっそりスタジアムのトイレで応急措置をする。ベンチに戻ってからも、交代する、しない、で味方と延々、議論を続ける。その間、相手チームはずっと待たされてるわけだ。そんな場面が、一試合に何度も何度も出てくる。感動的な場面として演出されているが、相手チームへのリスペクト皆無なことは間違いない。試合が勝利で終わってからも、彼らはグラウンドに飛び出して抱擁を繰り返すだけで、高校野球ではやらなきゃならない、整列と相手への挨拶なんぞ、やろうともしないのだ(映画のラスト、地方予選決勝で勝ったにもかかわらず、三年生が抜けると部員は二人しか残っていないという唖然とさせられるシナリオになっているのだが、あれ、あまりにも礼を失した行為が高野連咎められ、出場を取り消されたのではないかと思った)。

 このどうしようもない映画を観ながら、ふと、少し前に観た韓国映画私たちの生涯最高の瞬間』(2008年、イム・スルレ監督)を思い出した。アテネ五輪で銀メダルを獲得した女子ハンドボールチームの物語だ。高慢な男性監督と、ベテラン女子選手の軋轢。マイナースポーツであり、しかも女性であるゆえの悲哀(主力選手たちは、夫の借金や、筋肉増強のためのホルモン剤過剰摂取で不妊になるなど、十分なサポートを期待できない種目の女性アスリートゆえの悩みをかかえている)などが丁寧に描かれる。それらを乗り越え、彼女たちは強豪デンマークとの決勝戦に臨む。
 選手を演じたムン・ソリ以下女優陣は、数ヶ月ハンドボールの特訓を受け、もちろん本職には及ばないものの、一応、ハンドボールらしいプレーをしているだけでも感心させられたが、いちばん好感を持ったのは、決勝戦における相手デンマークチームの描き方だ。
 監督自身、「愛国心を喚起したい」と述べているけれど、地元ヨーロッパ勢であるデンマークを露骨に贔屓する審判の描き方は、日韓共催サッカー・ワールドカップにおける「審判団の韓国寄り誤審」を知る身には、正直はしたないように思えた。わざと倒されたふりをして、思惑通りファウルをとってもらってにやりとするデンマーク選手の表情も映し出される(客席では韓国ハンドボール協会会長が「卑怯な奴だ!」と叫んでいる)。
 だが、そうした「愛国的描写」がそれほど気にならなかったのは、個々のデンマークの選手たちの表情を丁寧に拾っているからだ。ハンドボールは、サッカーやラグビーやバスケットボールと同様、激しい体のぶつけあいだ。極限までの興奮状態にありながら、冷静なセルフコントロール状態も要求される。だからこそ選手たちは、リードされれば悔しがり、点を取れば全身で歓喜を現す。スター女優を並べた韓国選手と違い、デンマークの選手たちは、特に個々背景が描かれるわけじゃないが、同じアスリートとしての喜怒哀楽が敵味方の隔てなく表現されているのだ。そして映画は、試合後、客席に向かって並んで挨拶する両チームの選手の姿が、俯瞰で同じ画面に映し出されて終わる(試合シーンを通じて、韓国選手とデンマーク選手が、それぞれの表情で同じ画面に映しだ去るショットはとても多い)。『Rookies 卒業』と違い、この映画の試合には、韓国選手と同じくらい、デンマークチームは存在感がある。彼らの「卑劣さ」を描いてはいても、韓国選手と同じくらい、相手も必死なのだということは、彼らの表情を観れば分かる。
「誤審」や相手の「卑劣な演技」に対し、韓国選手たちは猛烈に抗議する。抗議が認められないと全身で悔しさを現す。歴史的に大国中国や日本の侵略にさらされ、植民地の悲哀を味わい、今なお北朝鮮という交戦国(法的には朝鮮戦争終結しておらず、休戦状態にあるにすぎない)を隣に持つ彼らにとって、「敵」は身近な存在なのだ。
ヨーロッパの有名サッカー選手は、常に「相手チームをリスペクトする」という表現を使う。それは、「下馬評では俺らのほうが強いけれど、決して相手を舐めたりはしない。それは相手を馬鹿にするのと同じだからだ。相手をリスペクトするがゆえに、全力で戦う」という意味だ。「敵」は必死だ。だからこそ、こちらも必死にやる。2002年ワールドカップの「誤審問題」や、オリンピックのキム・ヨナ陣営の金メダル獲得に向けた執念は、常に「敵」の存在を意識せずにはいられない国民性ゆえかもしれない。


 ところで、今年観た映画のなかで、いちばん感動させられたのは、クリント・イーストウッド監督作「インビクタス 負けざる者たち」だった。モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラ大統領を主人公に、南アフリカで開催されたラグビー・ワールドカップにおける南アフリカチームの戦いを描いた映画だ。
 南アフリカ史上、初の黒人大統領となったマンデラは、ラグビー・ワールドカップを、自国における黒人と白人の融和に利用しようとはかる。ラグビーは長らく白人のスポーツで、ラグビー南アフリカ代表チームには、黒人は一人しかいない。マンデラは、黒人と白人を越え、同じ南アフリカ人としてのアイデンティティを確立するため、あらゆる政治的手法を使って、ワールドカップを盛り上げようとする。
 いわゆる「卑怯な」手段で勝たせようというのではない。マンデラは大統領公邸に、南アフリカ代表キャプテン(マット・デイモン)を招待してこんなことを言う。歌や詩やスポーツは、政治的利害を超えた感動をもたらす。私は、イギリス人から午後の紅茶の習慣を教わった。バルセロナ五輪に招待された時、スタジアムで演奏された「神よ、アフリカに祝福よ」の歌に感動させられた。獄中生活にあった時、私を支えてくれたのは「たとえどんな苦難があろうとも、私は暗黒には堕ちない」という詩だった……。人間はどうすれば、純粋な意味で、己の力を100%発揮できるのか。どんな励ましが、選手たちを奮い立たせるのか。そして、選手たちのどんな振る舞いが、国民の共感を呼び起こすのか。
 マンデラの思いは、選手たちを文字通り鼓舞した。南アフリカ代表チームが勝ち進んでいくにつれ、国民は肌の色の違いを超え、応援し始める。そして南アフリカ代表チームは、決勝戦に到達する。相手は世界最強、オールブラックスの異名を持つニュージーランド代表。主力は、ニュージーランド原住民であるマオリ族選手。マンデラは、整列した両国選手のひとりひとりに握手しつつ、敵チームの主力選手に敬意をこめた微笑とともに言う。「君が恐ろしいよ」。
 そのニュージーランド代表チームは試合前、マオリ族選手を中心に、白人選手も加わって、マオリ族の戦士のダンスをパフォーマンスして、戦意を高揚する。イーストウッド監督は、彼らのパフォーマンスを丁寧に映し出す。すなわち、人種融和においては、少なくともラグビー代表チームにおいてはニュージーランドのほうが先輩であり、それゆえに彼らは強いのだ、と(19世紀にニュージーランドでは、マオリ族と入植者イギリス人の間で二度の戦争が起こっている)。
 そのニュージーランドに勝ち、たとえ一時ではあっても(人種間の融和は進んだが、南アフリカの経済的苦境とそれに伴う治安の乱れは解決されていない)、スポーツが人種を越えた連帯感を生み出すことを知った南アフリカ人たちは、何かを学んだに違いない。2010年、南アフリカではアフリカ初の世界最大のスポーツ祭典、サッカーのワールドカップが開かれた。大会前は、インフラ整備の遅れやセキュリティの問題から開催自体が危ぶまれた。開催国南アフリカ代表は一次リーグで敗退した(開催国の一次リーグ敗退は史上初)。だが、それでも南アフリカ人たちは、ワールドカップをサポートし続け、当初予想された混乱はほとんど生じなかった。

「敵」は常に存在する。だが、「敵」との融和をもたらすものを、人類は発明している。スポーツ、歌、ダンス、詩。もちろんそれは、かえって「敵対心」を刺激するものではある。だが、史上初めて国威高揚に利用されたとされるナチス政権下でのベルリン五輪でさえ、レニ・リーフェンシュタールは、劣等人種とされた黒人選手やアジア人を美しく描いた。スポーツは、「敵」がいるからこそ、さまざまな「思い」をかきたてる諸刃の剣だ。そして、徹底的に「敵」の存在を消した”スポーツ映画”がナンバーワン・ヒットとなった日本人に、たとえば尖閣諸島をめぐる中国との軋轢を解決する能力があるのかどうか、少々心許なかったりする。


(付記)以下は蛇足。日本が勝利を収めた日清・日露戦争における日本軍は、敵国である清国北洋艦隊司令長官と日本の連合艦隊司令長官との友情、203高地攻防戦における乃木将軍とステッセル将軍の友情などの「美談」が喧伝された。一方、敗れた太平洋戦争中に製作された「戦意高揚映画」では、交戦相手の敵兵はほとんど描かれず、日本軍内での戦友同士の友情のみが強調されている(まさに『Rookies』!)。日米開戦前、日本の軍も政府も、こちらの作戦に対して相手がどう出てくるか、データを改ざんしてまで楽観的な見通ししか立てなかったことは、猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』に詳しいが、「敵」を見まいとする空気が支配的になると、日本はろくな事にはならないという証左のように思えなくもない。そして、「敵」をきちんと観るということは、某東京都知事のように、「敵」はひたすら罵倒するという下品な態度とはほど遠いことは、言うまでもない。いくら罵倒したからといって、「敵」に勝てるわけではない(あの人は口だけ番長で、実際の政務ぶりは「よきにはからえ」らしいんだけどさ)。


勝ちたければ、敵をリスペクトせよ!
決して眼を背けるな!


↓『Rookies 卒業』予告編

↓『インビクタス 負けざる者たち』

↓『私たちの生涯最高の瞬間』予告編



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