「殻」の破り方……『彼とわたしの漂流日記』(2009年、韓国)

2009年 韓国
監督=イ・ヘジュン 出演=チョン・ジェヨン チョン・リョウォン





主婦ライター石川結貴さんの新著『ネトゲ廃女』(リーダーズノート)が面白かった。オンラインゲームに人生を支配された主婦の方々のルポであるが、そのあとがきで石川さんはこう書いている。

半世紀前の昭和三〇年代、洗濯機、冷蔵庫、テレビは「三種の神器」と呼ばれた。(中略)さて現代。主婦はパソコンという新たな神器を手に入れた。クリックするだけで新しい世界が広がり、たくさんの人と知り合える。あらゆる情報を入手できるし、買い物も銀行振り込みも簡単、テレビ電話機能まで使える。しかも、単に便利になったというだけではない。そこには「楽しい」ことがいっぱい用意されている。格安品を手に入れられるオークションやお得なクーポン、動画サイトに無料のネットゲーム。

1995年製作の押井守監督アニメ『攻殻機動隊』でヒロインの草薙素子は「ネットは広大だわ」とつぶやきネットの海にダイブする。あらかじめ肉体を持たないサイボーグが、攻撃的な「殻」で覆っていたボディを捨て、ネット上を自由に漂うデジタルな存在に自ら変身するのだ。そして、21世紀も10年たった今日、草薙素子は当たり前のように数多く存在する。


本作『彼とわたしの漂流日記』の主人公のひとり、個室にひきこもる額にケロイドを負ったヒロインは、夜な夜なパソコンを開き、ネットの海をたゆたう。ネット世界での彼女は、ソウルの街中をさっそうと歩き、ブランドものの服や靴を買いあさる都会的なの美女。彼女のCyworldミニホムピィ(韓国で人気のブログみたいなもの)に掲載されたプロフィール写真も、日記で自慢げに披露するお買い物も、全部ネットでひろった画像。「外に出なくても、ネットではほしいものが手に入れられるんです」と彼女はつぶやく。ケロイドを負っていじめられ、対人恐怖症になって引きこもった彼女は、外に出る時はバイカースーツとヘルメットで完全武装する。「殻」で全身を覆わなければ外の世界に出ることもできない。でも、ネットの世界では、「殻」も「傷を背負った肉体」も脱ぎ捨てて「こうありたい自分」になることができる。彼女は「ネットの海」の住人、21世紀の漂流者だ。


この映画は、大都会ソウルの片隅を「漂流」する男女の出会いの物語だ。そして彼らの「漂流」ぶりの現代性と、いにしえから変わらない普遍性を、手際よい脚本と隅々まで計算の行き届いた映像、そして主役二人の名演で描いた佳作である。


ロビンソン・クルーソー』以来、文明から孤絶した無人島でのサバイバルというテーマは、それこそ数限りない。『スイスのロビンソン』(日本でアニメ化され『ふしぎな島のフローネ』という題名で放送された)や、『十五少年漂流記』のような脳天気なアドベンチャー小説、そのネガ的な存在である『蝿の王』という残酷小説もある。幼い男女が南の楽園で成長し愛し合う『ハリケーン』(1979年、ブルック・シールズ主演)や『パラダイス』(1983年、フィービー・ケーツ)のような映画もあるし、身分違いの男女が無人島で二人きりになって……というイタリア映画『流されて』(1974年、リナ・ウェルトミューラー)もあった。
こういう「孤島漂着」モノというジャンルにおいて大きな要素となるのは、人間のうちなる「文明」と「野蛮」の相克ということになるだろうか。『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』に溢れる「文明社会から放り出された人間が、孤独に負けず、あるいは力を合わせて荒地に文明を築いていく」という脳天気な物語はもはや通用しない。『蝿の王』の少年たちは、あさま山荘に籠もった連合赤軍のように粛清に走った。『流されて』では、文明社会を秩序だてていた「身分構造」が意味を持たなくなったことで、漂着者はむき出しの男女として罵りあい、憎み合い、相手を服従させようとあの手この手を尽くす。いわば、無人島は「文明人が文明から切り離されて文明人としての自分を保てるかどうか」の試練なのであるフィービー・ケーツブルック・シールズの半裸で客を釣ろうとした『ハリケーン』や『パラダイス』はともかく)。そうした「漂着」モノの頂点は、川を遡ってジャングルを奥に進んでいくことで、文明的な兵士が野蛮な戦士へと変わっていく『地獄の黙示録』(1979年)だろう。
どこに行ってしまったのかフィービー
さらに21世紀の今日、「文明と野蛮との対比」という20世紀ヨーロッパ的テーマは古くさい。情報テクノロジーが高度に発達してしまった結果、人間は七面倒くさい文明(世間、人間関係、組織)からも、リアルな身体性(自然/野蛮)から簡単に逃避できるからだ。今、テーマとなるべきは、人間は自然な肉体を取り戻せるのか」ではないか。そういう意味合いにおいて『彼とわたしの漂流日記』は、21世紀における「孤島漂着」映画の一種のパターンを作った作品だと思う。


この映画の原題は「キム氏漂流記」である。ソウルに暮らす二人のキムさん(男女)が主人公。キムという名字自体がありふれているが、タイトルクレジットでも、"male kim"と"female kim"とされるように、彼らは基本的に「名無し」の存在だ。男キムは会社をリストラされ恋人に逃げられ借金を抱えている。女キムは、いじめで学校を自主退学し部屋に引きこもっている。誰も彼らを顧みない。引きこもり少女は母親と同居しているが、母娘の会話は携帯メールでやりとりされる。ストレスの多い現代社会から落ち零れた二人。
男キムを演じるチョン・ジェウンは、『シルミド』(2003年)の元ヤクザの特殊部隊兵士、『トンマッコルへようこそ』(2005年)の北朝鮮将校といった、骨っぽく渋い役も多いが、一方で、『ウェディング・キャンペーン』では嫁の来てのない農村の不器用な男も好演した。濃い顔の二枚目だけれど、さりげなく(ここが大事!)コミカルな雰囲気を漂わすこともできる演技派だ。個人的にはソン・ガンホチェ・ミンシクと並び、安心して見ていられる韓国人俳優のひとりである。
一方、引きこもりの女キムを演じるチョン・リョウォンは、テレビドラマで人気を得た女優さんらしい。『二つの顔の猟奇的な彼女』(2007年)という『猟奇的な彼女』の二番煎じ的コメディで、おしとやかになったり凶暴になったりする(彼氏の股間を蹴り上げたりする!)二重人格美女を演じていて、率直にいって、よくいる人工的な韓流美人女優という印象しか残らなかったが、今回はもともとスリムな体をさらに10キロばかり減量、ほぼノーメークでいかにもメンヘル少女に変身。外の世界へにひたすら怯えていた少女が、次第に心を開いていく様を繊細に演じている。

ところで、この映画が製作される前年、アメリカで『幸せの1ページ』(マーク・レヴィン+ジェニファー・フラケット監督)という映画が公開された。原題は”Nim's Island”。変わり者の海洋生物学者の父親とふたり南の無人島に住む少女ニムと、潔癖性すぎて書斎から一歩も出られない女流作家(ジョディ・フォスター)の交流を描いた作品。孤島生活者と引きこもりを主人公に据えた点で、『彼とわたしの漂流日記』と似た設定である。
『幸せの1ページ』における孤島生活者である少女ニムは、生まれて間もなく無人島に連れて来られたので、外の世界どころか父親以外の人間すら知らない。一方、書斎から一歩も出ることがないという点において、女流作家はニムと同じような境遇にいる。おそらく、作品のモチーフは、クーデターで国を追われ無人島で娘と二人で暮らす王の復讐を描いたシェイクスピアの『テンペスト』だ。主人公の王は万巻の書を読んで身につけた魔法を操っているが、『幸せの1ページ』のヒロイン二人の生活を支えているのは、現代の魔法ともいうべき「ネット技術」。無人島に住む父娘も、書斎に引きこもる女流作家も、ほしいものがあればネットで購入できるし(商品は近くの島に届けられ、時々父親が船で取りに行く)、外部(学会や出版社)との打ち合わせや原稿送付は電子メールで簡単にできる。
ハリウッドと韓国で、同じような設定の映画がほぼ同時期に作られたことは興味深いけれど、残念ながら『幸せの1ページ』は、現代的なテーマを深めていくことなく、割合に陳腐なファミリー・アドベンチャーとして手堅くまとめられてしまった(そもそも、娘に無人島暮らしを強いて外の世界と接触させない父親って、新潟で誘拐した少女を十数年も監禁した男と、メンタリティにおいてどれだけ違うだろう)。そういう個人的な不満を解消させてくれたのが、この『彼とわたしの漂流日記』だ。製作は2009年だが、日本では今年の夏公開、ぼくは平日昼間に六本木シネマートで見た。観客はぼくを含めて5人、彼氏と連れだって観に来たきた女性が「ほんとうに数えるくらいだね」と呟いていた。


さて、ストーリー。
漢江(ハンガン)といえば、ソウルを象徴する大河。1980年代の急激な経済成長は「漢江の奇跡」と呼ばれたし、韓国映画ファンにとっては、かの怪物グエムルを生んだ川でもある。そういえば『グエムル 漢江の怪物』も、事業に失敗した会社社長が漢江に身を投げて投身自殺するシーンから始まっていたが、この映画の主人公、男キムも、映画開始後2分ほどで、いきなり身投げする。会社をリストラされ、彼女に捨てられ、消費者金融からの借金は2億ウォン(2000万円くらいか)に膨らみ、もはやこれまでと思い定めての自殺。ところが男キム、漢江の中州にあるパム島(栗島)に流れ着いてしまう。

パム島は、かつては40世帯150人ほどの住民が暮らしていたが、朴正煕政権時代に漢江が洪水で氾濫し多大な被害が出た際、あの島のせいだと当時のソウル市長が住民を強制撤去させ、ダイナマイトで粉砕してしまったそうだ(軍事政権らしい乱暴さが通用した時代だった)。その跡地に砂が積もり、やがて草が生い茂り、渡り鳥が数多く飛来するようになった。現在は、漢江にかかる西江大橋の真下にあり、コンクリート製の橋梁が突き刺さっている。10年ほど前から、生態系保護のため立ち入り禁止になった。
そんな島にぽつんと立つ男キム。見回せば国会議事堂やソウル1の超高層ビル「63ビル」などが間近にそびえ、漢江にかかる多くの橋を行き来する自動車も見える。向こう岸までは、泳げばなんとかたどり着けそうな距離。意を決して川に飛び込む男キム。だが、彼はカナヅチだった。溺れそうになりながら、走馬燈のようにこれまでの半生が脳裏にフラッシュバックする。「なんで泳げないんだ!」と子供の頃お父さんに叱られ、会社をリストラされ再就職もままならず、捨てられた彼女からは「私、悪い女よ。でも、無能な男のほうがダメなんじゃないの?」と引導を渡され、消費者金融で借金を増やし……ええい、あほらしい! 俺はそもそも自殺しようとしたんじゃないか! 死んでやる! 木の枝にロープを引っかけ死のうとする男キムに生理現象が襲いかかる。草むらにしゃがみ込み、脱糞。安堵の気持ちが広がる。そんな男キムの前に咲くサルビアの花。思わず、その蜜を吸う。甘い……死ぬのはいつだってできる。もう少し生きてみようか?

このブログでも何度か書いたが、韓国映画は、ものを喰うこと、喰ったモノを排泄することの描写を物語の展開力にさせることに長けている。『トンマッコルへようこそ』で、チョン・ジェヨン演じる北朝鮮将校が、偶然、観国軍将校と並んで野グソをするシーンがある。両者の敵対関係が緩んでいくプロセスのひとつとして挿入された場面だ。人間は、しょせん飯喰ってクソして、そしていつかは死んでいく存在。その部分に関しては、貧富の差や人種・国籍の違いはない。
生きよう。
男キムのサバイバルが始まる。


そんな男キムを、じっと見つめていたのが、引きこもりの女キムだった。
彼女は、「健全な引きこもり」と自称している。毎朝、決まった時間に起床する。勤め人である母親が出勤間際に「何かほしいものはある?」とドア越しに声をかけてくるからだ。聞かれて彼女はメールで返事する。朝食はトウモロコシの缶詰、昼食はインスタントラーメンの乾麺をゆでずにかじる。摂ったカロリー分は必ず万歩計を腰にあてて部屋のなかでウォーキング、スリムな体型を維持するためだ。部屋のカーテンは閉め切り、ビニール袋に詰め込んだゴミの山のなかで暮らしながらも、彼女は一般の勤め人同様、規則正しい生活を送る。日が落ちるまではパソコンを立ち上げて、会員登録したサイトを巡回、充実した「人生」をネット住民たちに報告。ティファニーで靴を買いました。もちろん嘘だけど、画像をひろって貼り付ければ、それはネット世界での真実になる。そんな私の「人生」を崇めてくれるネット住人たちもたくさんいる。日が落ちたら、窓のカーテンを少しだけ開けて、ソニーの望遠レンズつきデジカメで月の写真を撮る。生命体のない世界。私を脅かす他者のない世界。そして、毎晩九時には寝る。うるさいパパが帰ってくる前に……。
そんな女キムが、日中明るい時間帯にカーテンを開ける機会が、年に2度だけある。春と秋に行われる防空演習の時だ。ソウルは、北朝鮮との軍事境界線まで60キロの距離にある。自動車で走れば約一時間の距離に、法的にはまだ交戦中の敵がいて、いつミサイルを撃ち込んでくるか分からない緊張した状況に生きているのが韓国人だ。ソウルの中心地には地下道が多い、防空演習のサイレンが鳴り響くと、北朝鮮からミサイル攻撃を受けたという想定のもと、地上にいた全員が地下道に入らなければならない。防空演習は20分ほどで終わるが、その間、ふだんは人通りと車でやかましいソウル市街が、廃墟のように静まりかえり、人影ひとつ見えない。そう、この20分間だけ、私を脅かす他者のない世界が地球上に出現するのだ……。
ところがその日、彼女がカーテンを開けてデジカメのレンズを向けた先に、いないはずの人間がいた! パム島に流れ着き、絶望して首を吊ろうとしていた男キムだ。彼女は慌ててカーテンを閉じる。カーテンを閉じ、寝室にしている押し入れに籠もり、催眠ビデオを流す。だが眠れない。彼女はもう一度、カーテンを開けてデジカメをのぞく。彼は生きていた。よかった……。


その日以後、彼女は、漢江の川中島で奮闘する男キムを観察し続ける。憂き世でのひ弱さが嘘のように、たくましく生き抜いていく男キム。島の砂浜に「HELP」と書いて救助を待っていた彼は、その文字を「HELLO」と書き換え、流れ着いた漂着物でそれなりの生活基盤を整え、生活をエンジョイしている。そんな男キムに、女キムはなぜか惹かれていく。彼女がなぜ男キムに惹かれたのか、具体的な説明はされていない。恋愛感情ではなさそうだ。彼女は男キムを観察しながら「地球外生命体」と呼びかけるが、彼女は対人恐怖症ではあっても正常な判断力は失っていない。彼を「地球外生命体」と呼ぶのは、自分を脅かす他の人間たちと区別しているくらいの意味しかない。説明できぬまま彼を観察し続ける自分への言い訳みたいなものだ。ではなぜ?


島に漂着して以来、キノコや花の蜜で飢えをしのいでいた男キムが、やっとタンパク質にありつく場面がある。ある朝、島に流れ着いた洗剤で頭を洗っていると、流れた洗剤のせいで魚の死骸が何匹か浮かび上がる。それまで木の枝で作ったモリを手に川に入ったりとがんばったが、一匹の魚も得ることができなかったのに。男キムは夢中で魚をあぶり、食らいつく。その翌日、目を覚ますと食い残しの魚をついばんだ鳥が死んでいる。男キムは、羽をむしって火であぶり、久しぶりの焼き鳥に舌鼓をうつ。その後彼は、島に流れ着いたアヒルさんボートをねぐらにし、ペットボトルでサンダルをこしらえ、生活基盤を整えていく。
要するに男キムは、文明から孤絶した自然のなかで生き抜いているのではない。外から流れてくる「文明の残滓」によって生活を支えているのだ。象徴的な場面がある。男キムは当初、木をこすりあわせるという原始的な方法で火をおこそうとするのだが、結局できず、ライターを使う。現代人が、文明の利器なしに、自然の中で生き抜けるはずがない。即ち、親の庇護やネットという文明の利器があればこそ、安心して独り引きこもっていられる女キムと同じではないか。
島に漂着した当初、男キムは砂浜に「HELP」と書き、助けを求めた。島の近くを遊覧船が通りかかると、手を振って「助けて!」と叫んだ(遊覧船の客は手を振り替えしただけだったが)。そんな男キムはやがて、遊覧船が通りかかると隠れるようになる。ここにいるかぎり、彼は社会の落伍者であることを思い知らされることもないし、借金取りに追われることもない。彼は自ら島に引きこもったのだ。女キムと同様に。


ただ、男キムには、女キムにはないものがある。見ている者が誰もいない(はずの)環境で、男キムは喜怒哀楽を隠さない。悲しければ泣き、嬉しければ踊り、悔しければ怒鳴る。かわいい私の「地球外生命体」。彼に、私が見ているということを知らせたい。
女キムは決心する。一度だけ外に出よう。ワインボトルに「HELLO」とだけプリントしたコピー用紙を入れ、バイカースーツにヘルメットで完全武装、忍び足で人目を避けつつ裏通りをつたって西江大橋まで出て、パム島めがけてワインボトルを投げる。

男キムがワインボトルを拾ったのはその三ヶ月後。砂浜の文字が「HOW ARE YOU?」と書き換えられるのを見て大喜び。二人の「交信」が始まる。「FINE THANK YOU,AND YOU?」「FINE THANK YOU」。原始的な交信手段による初歩的な英会話でのやりとり。二人は幸せだった。男キムがこんなメッセージを砂浜に書くまでは。
「WHO ARE YOU?」


私は……誰?


女キムは、自分のミニホムピィに貼り付けた他人の顔をプリントアウトして、ワインボトルに入れて投げようとする。だが、できない。それはネットの海における「私」ではあるけれど、しょせん他人の顔。二人の「交信」は終わる。男キムは砂浜にこう書き付ける。「WHY?」。なぜ、何も言ってこないんだ? 女キムは、その問いから顔を背け続ける。理由? 言えるわけないじゃない。彼は、私の本当の姿を知っても、私と「交信」してくれるだろうか? わからない。わからないから、人間は恐い。男キムが「WHO ARE YOU?」と問うた瞬間から、女キムにとって彼は「地球外生命体」ではなく、彼女を脅かすかもしれない人間になってしまった。恐い。恐いことからは顔を背けていたい。
やがてもっと恐ろしい事態が起こる。女キムは、ミニホムピィのプロフィール写真が他人の顔であることを暴露され、誹謗中傷のコメントでミニホムピィはたちまち炎上。どうやって分かったのか、彼女が高校2年のとき(おそらく顔のケロイドのせいで)自主退学したことまでばらされた。

一方、男キムの生活基盤も思わぬ形で破壊される。大嵐の夜、漢江が氾濫し、アヒルさんボートのねぐらも、苦労して耕した畑も、ことごとく流されてしまったのだ。必死で築いた「独りだけでいられる空間」は、自然の前には脆かった。さらに、定期的にパム島にやってくる清掃員に発見された男キムは、むりやり島から連れ出される。荒野のキリストのような姿で孤島生活を楽しんでいた男キムだったが、再び背広を着せられソウルの街中に立たされた彼は、ただのホームレスでしかない。死のうか……。今度は確実に。男キムはとぼとぼと63ビルへと向かう。


その一部始終をデジカメの望遠レンズで観察していた女キム。どうしよう? 彼女はためらい、そして走り出す。素肌に裾長のTシャツ一枚で。髪を振り乱し、額のケロイドが露出するのも構わず走る。

彼女は、走って何をしたいのか。もちろん彼に会うためだ。今を逃せば、もう二度と会えない。パム島という限定された空間にいたからこそコンタクトできた彼だが、大都会ソウルに紛れてしまったら探し出す術はない。今しかない!
彼女は走って走って走って、何を伝えたいのか。
もちろん決まっている。彼の質問―"WHO ARE YOU?"―に答えるためだ。


"MY NAME IS KIM JEONG-YEONG"


もちろん、伝えたいのは、「キム・ジョンヨン」という名前だけじゃない。私自身だ。あなたと同様、都会の小島で漂流していた私。それでも、あなたのおかげで、外に一歩踏み出す勇気をもらえた私。ネットの海でつくりあげた私じゃない。素のままの私。


草薙素子は、肉体の殻を脱ぎ捨て、ネットの海で自由を得られたのか? 本当の自由は、「怯え」という「殻」を脱ぎ捨て、ありのままの自分をさらけだす勇気を持つことではないか。もっと大事なことは……言うまでもないだろうけれど、ありのままの自分をさらけだせるパートナーを見つけること。甘やかしてくれる相手ではなく、その人のために勇気を奮い立たせられる存在をだ。


↓公式ホームページhttp://www.hyoryu-nikki.com/

↓予告編


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