67歳の宮崎駿から17歳の宮崎駿への手紙……『崖の上のポニョ』(2008年、スタジオジブリ)『白蛇伝』(1958年、東映動画)

崖の上のポニョ 2008年 スタジオジブリ
脚本・監督=宮崎駿  声の出演=奈良柚莉愛土井洋輝山口智子

白蛇伝 1958年 東映
脚本・監督=藪下泰司  声の出演=森繁久弥宮城まり子

ぼくは、劇場公開された宮崎駿の作品は全部見ている。彼がスタッフとして関わった作品……東映動画時代の『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)『長靴をはいた猫』(1969年)や、テレビアニメの『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』など……だいたい見ているはずだ。『千と千尋の神隠し』(2001年)などは、劇場で三回見た。DVDは百回くらい見ているかもしれない。そんなぼくだけど、昨年、『崖の上のポニョ』が公開された時には、劇場へ行くのをためらった。理由は、ラジオで以下のような「ポニョ評」を聞いてしまったからだ。

町山智浩氏のポニョ評(クリックしてください)

町山智浩さんは、いま一番信頼できる映画批評家だと思っているし、何より、前作の『ハウルの動く城』(2004年)にがっかりしたこともあった。
かつて宮崎駿は、こんなことを言っていた。

「漫画映画は……荒唐無稽だからこそ、とんでもない状況設定や、ぬけぬけとした嘘がつけるし、見るほうもそれを許すんだと思う。でも、作り手は、嘘の世界を本物らしくしていく努力が必要なんです。……その世界は虚構だけど、もう一つの世界として存在感があって、その中の登場人物の思考や行動にはリアリティがなければならない。太陽が三つある世界なら、三つあると感じられる世界を構築していかなければ」(『出発点1967〜1996』)

確かに、宮崎駿のアニメは、一見、非現実的なアクションやファンタジーが展開するが、その基本には、きっちりと構築された世界観にもとづく隙のない物語展開があった。だからこそ、観客は安心して、映画に没入できた。だが、『ハウルの動く城』は、約束事どころか、作品の舞台となる世界の基本設定が曖昧で、登場人物たちの行動にも、それこそリアリティがない。作り手である宮崎駿の妄想じみたイメージだけが充満した作品だった。
かつて、『七人の侍』(54年)を劇場で十数回も見たほど黒澤明の大ファンであり、晩年の『夢』(90年)『まあだだよ』(93年)に失望させられた経験を持つぼくは、衰えゆく巨匠の晩年に二度もつきあわされたくないという思いが強い。だから、『ポニョ』を見るのに、一年もためらい、見ないままでいようかと思っていたら、妻が勝手にDVDを借りてきて、晩飯の時に子供らと一緒に見る羽目になってしまった。果たして、町山さんの言うとおりだった。ぼくは、宗介くんのママが、意味不明の暴走をやらかすたびに、大声で文句を言い、「父さん、うるさい」とダイニングから追い出されてしまった。

ストーリーは単純なものだ。海に住んでいるポニョという人面魚だか人魚だか金魚だか未知の生物が、海岸にすんでいる宗介という五歳の男の子に恋をする。ポニョはタブーを破って、陸の宗介に会いに行く。そのために大嵐となり、町ひとつ全滅するが、ポニョと宗介は結ばれハッピーエンド……。町山さんが「あの洪水の責任、誰がとるんですか?」「あれ、絶対に人、死んでるぜ」と怒っていたけれど、まさにそのとおり。あれだけの巨匠が、偉くなりすぎて誰もチェックできないまま、巨匠の妄想を野放しにした結果、できあがった作品は、幼い女の子(年齢不詳だけど)が思う存分ワガママ放題やって、その結果多くの犠牲が出ているにもかかわらず、誰にもとがめられず、彼女の思い通りになってしまうストーリーなのだ。これはいったいなんなんだろう。

と考えていて、ふと、「なあんだ」と気づいた。『崖の上のポニョ』って、要するに『白蛇伝』の宮崎バージョンじゃないか、と。

白蛇伝』は、1958年に公開された「日本初の長編アニメーション映画」である。「東洋のディズニー」たらんと大川博東映社長の大号令によって、ぼくの家の近所の大泉にアニメーションスタジオが建設され、以後、年に1〜2本のペースで、一時間半程度の長編アニメーション映画(当時の言い方だと漫画映画)が制作された。今の日本のアニメ文化はこの東映漫画映画から始まったし、後の日本アニメを支える多くの逸材が輩出した。宮崎駿もその一人である(1963年に東映に入社)。
まずは、『白蛇伝』の一部をごらんいただきたい。

この映画が公開された時、宮崎駿は17歳だった。鬱屈した心を抱えた高校三年生が場末の映画館でなんの気なしに『白蛇伝』を見たことで、日本の、あるいは世界のアニメ史が変わったと言っていい。その時のことを、宮崎自身はこう語っている。

「どうも気恥ずかしいうちあけをしなければならない。ぼくは漫画映画のヒロインに恋をしてしまった。心をゆすぶられて、降り出した雪の道をよろめきながら家へ帰った。彼女たちのひたむきさに較べ、自分のぶざまな有様が情けなくて、ひと晩炬燵にうずくまって涙を流した」(『出発点1967〜1996』)

若き日の宮崎少年を、やがてアニメーターへの道に引きずり込むことになる『白蛇伝』とは、こんな物語である。ヒロインは、白い蛇の化身である白娘(パイニャン)。彼女はある時、許仙(しゅうせん)という美少年に助けられ、彼に恋をする。白娘の正体を見破った北海和尚により二人は引き裂かれるが、白娘は執念すさまじく、許仙を追いかける。白娘と北海和尚の妖術合戦などが展開され、クライマックスは、島に閉じこめられた許仙を奪い返そうと、白娘の妹分である少青(シャオチン)という魚の精が、海の生き物を引き連れて島を水攻めにするのだ。

以上の説明だけで、『白蛇伝』と『ポニョ』の共通点にお気づきになったでしょ。まず、人間と異性物の恋。ポニョは海岸に打ち上げられて困っているところを宗介に助けられ、彼に恋をする。白娘が市場で見せ物になっていたのを、許仙に助けられたように。また、白娘が恋する許仙は、優しいし美男だが、五歳の宗介同様、何もできないぼんくらだ。ぼんくらだが、宗介同様、白娘がやることすべてを受け入れてくれる「都合のいい男」である。
そしてクライマックス。白娘のために、海洋生物の大群を引き連れて嵐とともに押し寄せる少青は、まさに稚魚の群れをお供に町ひとつ全滅させるだけの大津波を引き起こしたポニョそっくりだ。
5分19秒くらいからが嵐の場面です。

崖の上のポニョ』を他の宮崎作品と比較して語るのは、あまり意味がないと思う。これはむしろ、かつて17歳の宮崎駿が打ちのめされるほどの衝撃を受けた『白蛇伝』に対して、人生の終わりを意識した67歳の宮崎駿が書いた「手紙」のようなものなのだ(宮崎駿が尊敬する作家・司馬遼太郎は、自分の小説は、戦車兵として日本のありように疑問を抱いた若き日の自分への手紙だと言ったが、そういう意味での「手紙」である)。

「宗介好き!」「宗介好き!」と甲高い声で叫びながら波に乗ってやってくるポニョは、はっきり言っておぞましい。白娘の執念は、ある種の女心として理解できなくもない。だが、ポニョの「恋心」は、「あのおもちゃがほしい!」とだだをこねる幼稚園児とどう違うのだろう。
ポニョと違い、白娘の恋はなかなか成就できない。北海和尚をはじめ、「蛇と人間の恋愛なんてとんでもない!」という良識ある「世間」の壁はあまりにも厚い。白娘は許仙のために自分の命を投げ出してもかまわないと思っている。北海和尚は、最後に二人の仲を認めてやる。世間のタブーを破るということは、そこまで厳しいものだし、厳しいがゆえに、それを乗り越えて成就された恋愛に、世間は拍手喝采するのだ。

一方、『ポニョ』で描かれた「世間」とはなんだろう。ポニョ同様我が儘な女の子のまま大きくなった宗介のお母さんをはじめ、「人面魚」と「幼稚園児」の恋愛に奇妙なまでに寛容な作品世界。「世の中」ってこんなもんだぞ。鬱屈した受験生だった17歳の青年が、ちょうど半世紀を経て出した答えがこれなのか。

「我が儘でいいんだよ! おまえの我が儘を貫け! そうすれば、世間はやがておまえについてくるから!」

それが、映像作家として世界的なキャリアを積んできた宮崎駿が到達した境地なのだろうか。そうだとすれば、それはそれで凄いことだと感心せざるをえない。

崖の上のポニョ [DVD]

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白蛇伝 [DVD]

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出発点―1979~1996

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以下、おまけ。

宮崎駿については膨大な評論が出ているけれど、『白蛇伝』をはじめ、10代後半から20代にかけての宮崎が夢中になって見た昭和30年代の「東映漫画映画」に言及されることは少ない。宮崎自身、その頃の東映漫画映画について辛い評価しか与えていないからかもしれないけれど(他人の作品を素直に褒めない人ではあるが)、最近の宮崎アニメを見ていると、当時の東映漫画映画の影響は見過ごせないと思う。
たとえば、多くの議論を呼び膨大な関連書が刊行された『もののけ姫』(1997年)だが、オープニングとエンディングが、『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)そっくりだということを、指摘した人がいるだろうか。
わんぱく王子の大蛇退治』は、スサノオノミコトヤマタノオロチ退治に題材をとった冒険活劇の傑作である(少年スサノオの声を風間杜夫があてている)。まずはオープニングから。

つづいて『もののけ姫』のオープニング。

英語版なのでわかりにくいかもしれないが、どちらも、まずは日本という国の成り立ちが語られる。『わんぱく王子』は記紀神話の国産み、『もののけ姫』は古代の照葉樹林が人間の文明によって破壊された経緯、と中身は違うけれど。そしてタイトル。『わんぱく王子』が銅鐸絵を背景がとしているのと同様に、『もののけ姫』もまた、銅の上に彫られた文様だ。タイトルが終わると、ヒーローが獣を退治するアクション。どちらも、人や動物が画面を疾走するスピード感がすばらしい。

つづいてエンディング。まずは『わんぱく王子』の場合。
5:50からのバトルは『スターウォーズ』に影響を与えていると確信している。
の続きです。
つづいて『もののけ姫
6:30あたりから注目。BGMもそっくり。

どちらの映画も、クライマックスの大戦闘の後、破壊し尽くされた自然は復活する。荒れ果てた大地に再び木や花が芽吹く。若きスサノオクシナダ姫は新しい国造りに希望を燃やし、サンとアシタカは相容れぬ自然と人間の相違について、苦い認識をつぶやく。その違いは確かにある。だが、ここまであからさまに似ている以上、宮崎が『もののけ姫』を作るにあたって、『わんぱく王子』を意識していなかったはずがないのだ。タイトルも王子princeと姫princessだし(宮崎が東映動画に入社したのは、ちょうど『わんぱく王子』が制作されている頃だった)。

そういえば、『もののけ姫』は公開当時、宮崎駿最後の作品と宣伝されてたんだっけ(後で宮崎自身が「そんなこと言ってない」と否定したが、嘘に決まってる)。『崖の上のポニョ』を宮崎自身が語る番組を見たが、彼は「もうすぐ死にますから」と繰り返してたっけ。作り手が「これが最後になるかも……」と意識した時、意図的にせよ無意識にせよ、原点に回帰しようとするものなのかもしれない。

もののけ姫 [DVD]

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わんぱく王子の大蛇退治 [DVD]

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