原節子 あるいは1936年のクラリス姫……『河内山宗俊』(1936年、日本)

1938年 PCL
監督=山中貞雄 出演=河原崎長十郎中村翫右衛門/山岸しづ江/原節子

今までみた女優のなかで、いちばん素敵だったのは? と聞かれると、「河内山宗俊原節子」と答えることにしている。そんな昔の映画を見たことがある人は滅多にいないから、話はそこで終わる。昭和13年製作、主演は故河原崎長一郎の父である長十郎と、中村梅之助の父(梅雀の祖父といったほうが早いかもしれない)である翫右衛門と説明されれば、大昔の映画ね、としか答えようがあるまい。
河内山宗俊は実在の人物で、明治初年に河竹黙阿弥が彼を主人公に『天衣紛上野初花』という歌舞伎を書き、今でも上演されている。ぼくが子供のころ、勝新太郎主演でテレビドラマになっていたのをかすかに覚えているから、ある年代の人までは「おなじみ」な物語なのだろうが、ぼくは20代のころリバイバルで見た山中貞雄監督のこの作品しか知らない。だから、この作品を説明せねばならぬときは、こう言うことにしている。ほら、宮崎駿の「カリ城」、あんな話ですよ、と。

「奴(ルパン3世)はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です!」
ご存知、「ルパン3世 カリオストロの城」の銭形警部の名セリフである。そう言われたクラリス姫は、「まあ」と口を開き、それからにっこりと邪気のない笑顔で微笑む。ここで彼女が「なにくさいセリフ言ってんのよ!」と照れながらも毒づくようならば、「カリ城」のヒロインにはなれない。同様に、真っ赤になってもじもじする小娘でも。あなたは彼を愛していますね、と言われて平然と微笑むことができるのは、羞恥心や照れ隠しといった小ざかしさとは無縁の、無垢という名の馬鹿でなければならない。そんな気高く鈍感な美少女が実在するかどうかは知らない。滅多に実在していないものだからこそ、彼女をめぐって男たちが戦う物語に説得力が生まれるのだ。岡田斗司夫さんだったろうか、クラリスについて、「アニメのヒロインとしてはさして可愛くない。ただ、そのありようの気高さが、他のアニメヒロインと違うところなんですよ」みたいなことをどこかで語っていたような気がする。
そして、クラリスのようなヒロインが、今までの日本映画で描かれたことがあるかどうか、ぼくのさして多くない映画鑑賞暦から言うと、この「河内山宗俊」の原節子だけだ。

この映画の製作当時、原節子は16歳。デビューして2年目だった。そのたたずまいは実に初々しく、演技は壮絶なまでにつたない。表情はあどけなく、メリハリがない。声は幼くかぼそい。動くお人形という形容がぴったりだ。けなしているのではない。この初々しい稚拙さこそが、彼女をこの映画のヒロインたらしめているのだから。

時は江戸。実在の河内山宗俊(本名は宗春)は徳川将軍家に仕える表坊主で、やくざ者と組んでユスリタカリを働き、捕らえられ獄死しているのだが、この映画の宗俊(河原崎長十郎)は、居酒屋の女将のヒモにすぎず、二階を賭場にして小金を稼いでいる。もう一人の主人公はヤクザ者の用心棒をつとめる浪人・金子市之丞(中村翫右衛門)。前進座の二大スターが、くたびれた中年の小悪党を演じる。
金子市之丞は、元は大身の侍だったが、今はわけあって、ヤクザの用心棒。夜な夜な、ガマの油売りだの露天商からショバ代を取り立てて口に糊している身だが、そうしたオッサンたちに混じってけなげに甘酒を売る娘・お浪(原節子)からは、お金を取らない。クラス一の美少女を前にデレデレする中学生のような表情で、しかし、口だけは大人びた上から目線。
宗俊の賭場には、お浪の弟で不良気取りの直次郎が出入りしている。弟の身を案じるお浪は、宗俊に「どうか、弟を出入りさせないでください」と訴える。市之丞と違ってええかっこしいの宗俊はわざと邪険なふうを装うが、美少女のまっすぐな眼に内心タジタジなのを、古女房のお静(山岸しづ江)に見抜かれる。

お静を演じるのは、実際に河原崎長十郎の妻だった山岸しづ江(すなわち、河原崎長一郎、次郎、健三のサン兄弟の母)。いかにも修羅場をくぐり抜け、くぐり抜けた修羅場の数だけ表情に疲れをにじませた中年女だ(熟女という言葉より中年女がぴったり)。芝居はこの映画に出ている人のなかでも抜群にうまい。ちょっとした表情やしぐさで、内面の揺れを表現できる女優さんだ。
一方の原節子は、繰り返すが、デビュー二年目の初々しさと稚拙さがないまぜになった硬質な演技だ。一本調子の棒読みで、「こんな笑顔でよろしくね」と監督に指示されたので懸命に笑顔を作りましたみたいな表情で、、「弟を出入りさせないでください」と愚直に繰り返す。他人は皆善意の人で、一生懸命お願いすれば分かってくれるはずだと信じきっているナイーブさ(鈍感さ、馬鹿さ)全開で、なんて汚れなき美少女なんだろうと感嘆しつつも、それまでの人生、その美貌でちやほやされてきたんだね、と深読みせざるを得ない。
それに対して、ベテランの二人。宗俊は戸惑っている。なんだこの小娘は。普通、この年くらいの娘が俺の前に出れば、怖がってろくにしゃべる事もできねえはずだ。なのに、こいつは何を言っても、同じせりふを繰り返しやがる。何をやってるんだ、俺は。ごくつぶしと罵られようが、やくざ者に脅されようが、腕っ節と度胸で乗り切ってきた俺じゃねえか。なんでこんな小娘ひとり、あしらえねえんだ。まさか惚れた? 馬鹿言え。若くてきれいなだけのおぼこい娘なんざ、あっちのほうじゃつまんねえってことは百も承知の俺じゃねえか。酸いも甘いもかみ分けた年増女を乗りこなすのが男の甲斐性じゃねえのか? しっかりしろよ、俺。
一方のお静。なんだろうね、この人。こんな小娘になにをぐらついてんのさ。さっさと追い返しちまえばいいじゃないか……。まさか、この娘の美しさに、迷ってるんじゃないだろうね。少しでも長く、こいつとしゃべっていたいなんて思ってるんじゃ……。ええ、いらいらする。この娘も娘だ。女房のあたしが、これだけ不機嫌な顔作ってるのに、まるで気づいてないじゃないか。馬鹿なんじゃないのかい。いや、そうじゃない。きれいな顔してるから、なんでも自分の思い通りになるって、太い根性してやがるんだ。ええ、悔しい。あたしがどれだけ、あんたに尽くしてやったと思ってるのさ。それなのに、こんなしょんべんくさい娘にうろたえやがって。ああ、憎らしい。

言葉にすればこれだけの量になる感情の揺れ動きを、少ない台詞回しやしぐさで表現しうるベテラン二人前にして、16歳の原節子は、ピュアという名の罪作りさを存分に発揮する。うまいからではない。下手だからだ。ただ、下手ならばいいのではない。下手でも美少女ならばいいわけでもない。その鈍感さが、聖なる何かに昇華しうるだけの存在感はなんなのだろう。
一つには、彼女の風貌の西洋人臭さだ。ロシア人のクオーターではないかという噂を聞いたことがあるが、確かに原節子の風貌は、ロシアの宗教画に出てくる聖女のようだ。生臭い名優に囲まれて、そこに佇んでいるだけで聖なる空間を作り出せる天性の存在感。それこそが原節子の武器であり、そんな武器を引き出せる名匠(山中貞雄しかり、小津安二郎しかり、黒澤明しかり)がいた時代の日本映画界に身をおいていたのが、原節子の幸運だった(実際の原節子は、タバコをふかしながら麻雀卓を囲むような女性だったらしい。今の芸能界であれば、そんな一面だけがクローズアップされ色物扱いされかねなかっただろう)。

で、河内山宗俊、いかさま博打でやくざ者から大金を巻き上げる。そのやくざ者は、金子市之丞が用心棒をやっている一家の者だった。やくざ者から頼まれた市之丞は、お浪の甘酒屋に顔を出した宗俊をつかまえ「ちょい面、貸せ」で決闘となる。町外れで向かい合う二人、ところが、抜刀した瞬間、はずみでお浪の指を傷つけてしまう。「お浪さん、どうした?」「こりゃ、いけねえ」と喧嘩のことなど忘れてお浪を介抱する二人の小悪党。これが縁ですっかり仲良しになってしまう。


だが、そのお浪に不幸が降りかかる。お浪の弟が、市之丞を雇っているやくざの親分がモノにしようと企んでいた幼なじみの娘と心中をはかり、自分だけ生き残ってしまうのだ。しかも、弟は莫大な借金を背負っていて、お浪がその肩代わりをしなければならぬ羽目に。「払えねえなら、とっくりと自分の体に相談してみねえ」と、やくざは暗に身を売れとそそのかす。
やくざたちが去った後、家で一人じっとうつむくお浪。弟が帰ってくる。自分が悪いと知りつつも、姉の前で素直に謝れないのが、思春期の少年。つまらぬ虚勢をはる弟に、お浪が初めて、感情を爆発させる。

このシーンの原節子の表情には、度肝を抜かれた。それまでの、いつもにこにこ微笑んでいる優等生的美少女の仮面の下から、むき出しの怒りがあらわになる。彼女はひとことも口をきかない。涙すら流さない。それでいて、なぜ私だけが、真面目に一生懸命生きてきた私が、こんな目にあわなきゃならないの、しかもいちばんかわいがってきた弟のために、そんな思いを一瞬の表情で表現してみせるのだ。

そういう表情ができるかどうかが、単なる美人女優と、大女優の分かれ目だと思う。

お浪が身を売る。それを知った河内山宗俊と金子市之丞。借金の額は三百両。三百両あれば、彼女を救うことができる。だが、そんな大金を用立てるだけの力は二人にはない。どうする? 
二人は乾坤一擲の大ばくちに打って出る。まずお浪の身柄をさらって、宗俊の居酒屋にかくまう。それから大名家をペテンにかけ、金を引き出すのだ(具体的にどんなペテンをやるかは、映画を見てほしい)。むろん、ばれたらタダではすまない。まさに命がけ。なぜ、二人の男たちはそこまでするのか。金子市之丞は河内山宗俊に言う。
「わしはな、今まで無駄飯ばっかり喰ってきた男だったがな、それがだ、今度はそうじゃないだろ。人のために喜んで死ねるような……人間、死ぬ前に一度はだな……」
死ぬ前に一度は、そういうことをやって死にたい。微笑みながら語る市之丞に、無言でうなずく宗俊。
その成り行きを、じっとみつめるお静。あんな小娘のために命を張るなんて……。

なぜ、宗俊と市之丞はお浪を救おうとするのか。彼女を好きだから。違う。ただ自分の命を延ばすために、誰の役にも立たない小さな悪を犯しつづける人生になんらかの決着を着けるためだ。市之丞は、このばくちの結果死んでもいいと思っている。宗俊は、死ぬ気はない。古女房のお静に、「旅支度をしろ。明日からは、二人で旅の空だ」と命じる。古女房は、当然、従うものだと思っている。お静の内面で嫉妬の炎が燃えさかっているのに気づきもせず。

ペテンは成功する。二人の男たちはお浪を救うだけの金を得る。だが、宗俊の居酒屋に戻ってくると、古女房のお静はお浪をたたき出していた。しかも、間の悪いことに、やくざに追われた弟が転がり込んでくる。彼は、姉を救おうとやくざの親分を刺し殺してしまった。親分の敵とばかり、わっと大勢のやくざが居酒屋にむらがってくる。
お静が、やくざ者たちの応対に外に出る。女ひとりで大丈夫かと市之丞も続こうとすると、宗俊が止める。
「大丈夫、あいつは俺の女房だ。河内山の女房だ。あいつに任せておけば大丈夫だ。おめえは逃げろ」

宗俊にとって、古女房のお静は、ともに世知辛い世を渡ってきたパートナーだ。確かに彼は、市之丞と同様、やさぐれて悪ずれした自分のなかにも、まだ良心が残っていることの証として、純粋な美少女・お浪を守ろうとした。だが、それは彼女がか弱く、世間の荒波に耐え得ない存在だからだ。本当の危機が迫ってきたとき、頼れるのはお静のような女だ。彼女への愛情が冷めたから、お浪に惚れたわけではない。お浪は、あくまでも自分のなかに残っている良心の証であって、色恋沙汰の相手ではないが、だからこそ、そういう存在のために命を張りたい。そして、命を張る状況になった時、頼れるパートナーはお静しかない。
お静は、その信頼に応えるしかない。やくざ者たちを押しとどめようとして、切られる。宗俊は、市之丞は、群がるやくざどもを切り散らしつつ、弟に金を託して逃がそうとする。せめて、お浪さんを助けなければ、誰もが浮かばれない。壮絶な斬り合い。敵味方あわせて多くの命が奪われる。
無垢なる存在を救うために。

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