父親が娘にしてやれること……『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年、アメリカ)

2004年 アメリ
監督=クリント・イーストウッド  出演=クリント・イーストウッドヒラリー・スワンクモーガン・フリーマン


「俺にボクシングを習いたいのなら、まず言っておくことがある」
白髪の老トレーナーは、彼のもとに飛び込んできた娘に言い渡す。
「俺に質問はするな。黙って言うことを聞け」
しばらくたち、娘はボクサーとして成長し、勝利を重ねる。その姿を見て老トレーナーは苦笑してつぶやく。
「彼女はやたらと俺に質問する。『なぜ?』『なぜ?』と。で、いつも自分の意思を通しちまう」


私事だけれど、数年前から小学生のバスケットチームの運営に携わることになった。チームには数人のコーチがいて、女子チーム、男子チーム、低学年男女チームとカテゴリーに分かれて指導している。女子チームを監督しているコーチがある酒の席で、こうもらした。「女の子は、コーチの手本を見て、自分でやってみて、うまくいってはじめて納得する。納得しないまま指導しても、絶対に言うことを聞かない」
これは年齢には関係ない。ぼくは、チームに入ったばかりの低学年の面倒を見ているのだが、男の子たちはとりあえず言われたことを懸命にこなそうとする。ところが、女の子は、こうしなさい、と言っても、首をかしげて疑問に満ちた眼差しでこっちを見る。ちょっとでも口調がきつくなると、うざ〜っという感じで顔を背けるか、笑顔でごまかそうとする。もちろん、納得すれば言うことをきくし、そういう彼女らが上級生になってコートで結果を出すのを見るのは嬉しいが、辛抱が必要なことも確かだ。女の子は誰も、生まれた時から頑固者だ。


この映画のヒロイン、ヒラリー・スワンク演じる31歳のマギー・フィッツジェラルドの場合、最初からイーストウッド演じる老トレーナー・フランキーを信頼して弟子入りを志願してきた。彼女は貧しい地域の貧しい家庭の出身で、いわゆるホワイト・トラッシュ(クズ白人)だ。トレーラーハウスで生まれ育ち、ミニスカートをはいてウェイトレスをやっている。
21世紀のアメリカにおいて、いわゆるアメリカン・ドリームが開かれているのは、勤勉なアジアからの留学生くらいのもの。貧しい家庭に生まれた白人女性が、貧しさから抜け出すことはまず不可能だ。アメリカの公立学校では、たとえば音楽や美術などは親からの寄付がないと教師も雇えず、教材もそろえられない。裕福な地域の公立学校では充実した教育が受けられるが、貧しい地域ではそうはいかない。公教育にすら格差が存在し、貧富の差が再生産される。
マギーは母子家庭に育ち、母親も、一児を抱える妹も、生活保護で暮らしている。妹の夫は刑務所で服役中。結婚しても、同じような境遇が待っているだけだろう。努力して、いい職を得ればいいじゃないか、というのは部外者の勝手な意見で、今のアメリカでは生活保護を受ける状態から抜け出せても、さらに悲惨な状況が待ち受けているのだ。そのことは後で述べる。
そんな展望のない状況の中で、マギーは27歳でボクシングを始める。映画では、彼女がボクシングを始めた動機やきっかけは語られない。フランキーが育てている黒人ボクサーの試合を見て、その場で弟子入りを申し込む。この人なら、信頼できる。私の将来を委ねてもよさそうだ。
昔かたぎのフランキーは「女にボクシングを教える気はない」と突っぱねる。年齢も30歳を超えている。ボクシングを始めるには遅すぎる。だが、マギーはめげない。勝手にジムに入ってきて、隅っこで黙々とサンドバッグをたたいている。パンチは弱々しく、べた足。フランキーは無視するが、マギーは黙々とサンドバッグに猫パンチを打ち込み続ける。
そんな彼女の粘りに根負けしたフランキーは、やっと弟子入りを許す。そして、冒頭に掲げた会話となるわけだ。こうして、老トレーナーと三十路のホワイト・トラッシュ娘の二人三脚の戦いが始まる。

フランキーに仕込まれたマギーは、めきめき上達、ついに世界タイトルに挑戦。苦戦するマギー。だが、フランキーのアドバイスで劣勢を盛り返す。チャンピオンベルトはもうすぐそこに……。
というところで、思わぬ悲劇がマギーに降りかかるのだ。


この映画は、いわゆるスポ根ものではない。あるとき、フランキーはマギーに、こう言う。「ボクシングとは、相手から尊厳を奪うスポーツだ」
マギーは次々と相手を病殺する。ゴングが鳴って向かい合うと同時に、強烈なパンチで相手をマットに沈める。倒れた相手はほとんどカメラに映されない。ただただ、マギーの強さだけが強調される。winner takes all。敗者に与えられるものは何もない。ある試合の後、マギーはフランキーに、相手選手がどうなったか尋ねる。
「鼓膜が破れたそうだ。いま、治療している」とフランキー。
「何かお見舞いの品を贈るべきかしら」というマギーに、フランキーは言う。「小切手しか受け取らないだろうな」
情けは、尊厳を奪い取られた敗者を、より侮辱するだけなのだ。この会話はさらりと演じられ、マギーも、そんなものかというふうに話題を変える。彼女が、本当にその意味を悟るのは、自分が尊厳を奪い取られる側になってからだ。

あるスポーツを描くドラマは、普通、その競技の魅力をどう描くかがポイントになる。ボクシング映画といえばシルベスター・スタローンの『ロッキー』で、クライマックスでロッキーが世界チャンピオン相手に戦い抜く場面は語り草だ。だが、そういう意味での、魅力的なボクシングシーンは、この映画では描かれない。試合シーンは淡々と描かれ、そこに感動はない。
たとえば、マギーが英国チャンピオンと戦う場面がある。フランキーもマギーも、アイルランドアメリカ人だ。マギーは緑色のガウンを着て登場する。緑色は、アイルランドのシンボルカラー。客席にはアイルランドの小旗を振る人々もいる。長年英国に支配されてきたアイルランドアメリカ人が、英国人選手と立ち向かう。そこに政治的な意味を見出すことは可能だろう。現に、そんなメッセージを読み取ろうとする評論家もいる(http://movie.maeda-y.com/movie/00528.htm)。貧乏白人のロッキーが、黒人の世界チャンピオン・アポロと戦ったように。だが、相手の英国チャンピオンは、黒人なのだ(おそらくジャマイカ系)。はい上がろうとするマイノリティ同士の戦いは、あっけなく決着がつき、マギーは英国チャンピオンをくだす。そこに、カタルシスはない。

そして世界チャンピオンとの戦い。相手はかつて「ベルリンの娼婦」だったという、やはりアフリカ系女性だ。勝つためには手段を選ばぬ相手。実際に肘うちなどの反則技を繰り出し、マギーは劣勢になる。そこでフランキーが出したアドバイスはこうだ。「彼女の坐骨神経を狙え」すなわち、相手の腰にパンチを浴びせ、脚の動きを止めろ、というわけだ。反則技だが、フランキーは「レフリーから見えない位置でやれ」。マギーは納得し、相手の勢いを止める。マギーも、フランキーも満面の笑顔。だが、そこに落とし穴があった。激怒したチャンピオンは、コーナーに戻ろうとするマギーの背後からパンチを浴びせる。倒れるマギー。彼女の頭部が、コーナーに置かれた椅子を直撃し、頸椎が破損。マギーは、寝たきりの生活を余儀なくされてしまうのだ。

この映画には、ボクシングで栄光をつかんだ人間は誰も出てこない。フランキーは、その理由は語られないが、家族もなくひとりぽっちだ。娘がいるらしく、しきりと手紙を書いているが、いつも送り返される。フランキーのジムでは、かつて彼が育てた黒人ボクサー(モーガン・フリーマン)が雑用係として働いている。彼は初めてのタイトルマッチで眼を失明し、ボクサー人生を断たれ、今は独り、ジムの一室に寝起きしている。マギーの対戦相手は、パンチ一発でマットに沈められ、みじめな姿をさらす切られ役にすぎない。世界チャンプはひたすらダーティさだけが強調される。
そう。ボクシングは「相手の尊厳を奪い取る」競技だ。マギーは、ボクシングで勝つことで、尊厳を得られた。だが、もっとも残酷なやり方で尊厳を奪われた。しょせん、ボクシングは、「尊厳」を求めて這い上がろうとする者同士が肉体と精神を破壊しあう「暴力」にすぎないのか。


かつて、ダーティハリーとして暴力的なやり方で犯罪者を制裁してきたクリント・イーストウッドは、晩年になって暴力を否定する映画を作るようになったと喝破したのは映画評論家の町山智浩氏だが、ダーティハリーの時代でさえ、彼の相棒刑事(有色人種か女性)は、必ずハリーの乱暴な捜査方法の巻き添えを食って殉職するか引退を余儀なくされる大けがを負った。マカロニ・ウェスタンや刑事物アクション映画でスターとなったイーストウッドは、実は暴力が何事も解決しないことを分かっていたのではないか。


マギーが勝ち続けていた時、彼女は得られたファイトマネーで、母親に家をプレゼントする。ところが、母親は喜ぶどころか怒り出す。家という資産を所有してしまえば生活保護や健康保険を打ち切られ、より悲惨な生活に陥ってしまうからだ。アメリカには日本のような国民保険がなく、極貧層にはメディケイドという公的保険があるが、なまじ収入があると負担額の大きい民間企業の保険に入るしかない(アメリカの健康保険制度の不備がどんな弊害をもたらしているかは、マイケル・ムーアの『シッコ』に生々しく描かれている)。マギーが廃人になったと知った母親は、弁護士を連れて病室に押しかけ、これまでの試合で得た娘の資産を自分名義にするよう迫る。用意した書類にサインさせるべく、彼女の口にペンをくわえさせ、「この弁護士さんに払う料金は、時給制なんだよ。早くサインしてよ」と叫ぶのだ。人でなしの母親だが、彼女もまた、ブッシュ政権新自由主義市場原理主義)がもたらした人心の荒廃の犠牲者の一人だ。貧しい環境に生まれた者は、なまじ働くより、働かないほうが生きていけるという環境に順応しているだけなのだから。

マギーは、サインを拒否し、くわえさせられたペンを吐き出す。そしてフランキーに、あなたの手で安楽死させてほしいと頼む。あなたのおかげで、私は、ほんのいっときだけど、人間としての尊厳を得られた。その記憶がまだ新しいうちに、自分の人生を終わらせたい、と。
マギーの願いに、フランキーは苦悩する。マギーが、尊厳を失わないまま生きていける方法はないのか。フランキーは、さまざまな方法を探し出す。だが、マギーは首を縦に振らない。そんなやり方じゃ、だめなの。私を殺して。それだけが、私の人生を崇高なものにする手段なのだから。

そこで、冒頭に掲げた会話がよみがえる。「俺に質問はするな。黙って言うことを聞け」と命じたはずなのに、「彼女はやたらと俺に質問する。で、いつも自分の意思を通しちまう」と。


女の子は、生まれた時から頑固者だ。父親が、頑固な娘にできることは、ひとつしかない。
彼女の言うとおりにしてあげること。それだけだ。屈服させられるのは、常に父親のほうなのだ。

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