覚悟を決めろ! 反省なき20世紀に平手打ちを!……『あなたは遠いところに』(2008年 韓国)

2008年 韓国
監督=イ・ジュニク 出演=スエ  チョン・ジニョン  オム・テウン


久しぶりにレビューを書く。他にも『第九地区』とか『春との旅』など、感想を書きたい映画はたくさんあるのだが、なにせぼくの書くものは長くてくどい(苦笑)。書くのに時間がかかる。仕事が忙しかったこともあって、結構書きかけの下書きだけは溜まっている。少しずつ、掲載していきたい。


さて、今回は、「スエ賛」という記事で書いた”薄幸の女王”スエの主演作。最近、やっとDVDが出た。これまでぼくが見た三本の彼女の主演作は、スエは素晴らしいが映画としては今ひとつ、というものだった。さて、四本目となる本作はどうだろう。

この映画をひとことで言うと、「戦争で生き別れた夫を捜す妻」のおはなし。この手のテーマで古典といえば、ビットリオ・デ・シーカ監督の名作『ひまわり』(1970年、イタリア)。第二次世界大戦に従軍して行方不明になった夫のマルチェロ・マストロヤンニを、ソフィア・ローレンソ連(当時)まで探しにいくというストーリーだった。ヘンリー・マンシーニの切ない音楽と、広大なロシアの大地に広がるひまわりの映像が印象的だった。
今回は、ベトナム戦争に従軍した夫を、若妻のスエが探すことになる。ひとまず、予告編をごらんいただきたい。





別にけちをつけるつもりもないが、この予告編、ミスリードが多い。「戦火のなかで貫いた夫婦の絆」というキャッチフレーズは、はっきり嘘である。どう嘘かは、これから説明します。


時は1971年。ベトナム戦争が始まってから7年後。米軍が撤退する2年前にあたる。よく知られた話だが、1964年にアメリカがベトナム内戦に介入すると同時に、韓国も要請を受けて軍隊を派遣、戦争終結まで約30万の兵士が投入されたという。韓国兵は、アメリカ兵以上にその勇猛さを恐れられ、略奪や暴行などの戦争犯罪も少なくなかったらしい。アメリカ軍が散布した枯れ葉剤を浴び、後遺症に苦しんでいる元兵士も多いそうだ。彼らの犠牲と引き替えに、韓国はアメリカから多大な援助を得て、経済成長を達成することになる。
息もできない』にも、ベトナム戦争に従軍し、その後遺症に苦しむ父親が出てきたけれど、こういう作品を見ていると、韓国人にとって、戦争や内乱といった「歴史」の身近さを感じる。いまや日本において「歴史」はノスタルジーやファンタジーでしかないが、かつて、戦争がつい「昨日」のことだった時代の日本映画の豊穣さを思うと、ちょっと考えさせられるものがある。


さて、ストーリー。
農村の没落した名家の長男に嫁いできたスニ(スエ)が主人公。農作業の合間に歌をうたうことだけが楽しみの無口な女性だ。夫サンギル(オム・テウン)は兵役にとられ、国内の基地に勤務している。ご存じのように、韓国社会は男尊女卑の伝統が根強かった。今でも韓国は夫婦別姓だが、別に男女平等ではなく、妻は「借り腹」、子供を産む道具にすぎず、同じ一族に入れてもらえない。
朝鮮戦争で夫を亡くし、独り息子のサンギルだけが頼りの義母は、毎月のようにスニを面会に行かせる。夫と離ればなれになった彼女を気遣ってのことではない。早く孫の顔を見たいのだ(面会に来た妻と兵士がセックスすることで、従軍していながら子孫を残す兵士の姿は、渥美清主演の『拝啓天皇陛下様』に詳しい)。だが、面会に来たスニに、サンギルの態度は冷たい。二人きりになっても指一本触れない。そんな夫の前でうつむくだけのスニ。その態度がますます夫をいらだたせる。「おまえ、愛って何か知ってるか?」と呟き、妻に背を向けてごろりと床に寝転がるサンギルには、妻の他に愛人がいた。

サンギルを演じるオム・テウンは、テレビドラマ『魔王』で日本でも有名な俳優らしい。『家族の誕生』ではムン・ソリ演じるヒロインの粗暴な弟を演じていたが、独善的な男らしさに酔う身勝手な奴を演じさせれば天下一品だ。そんな夫を前に、スニは何も言えない。家に帰って義母に、夫が浮気をしていることを告げても、「跡継ぎさえ産んでくれれば、愛人だっていいよ」と冷たくあしらわれる。

上に挙げた『ひまわり』では、夫婦の出会いや、どれだけ二人が愛し合っているかが強調して描かれたが、本作にはそういう場面が一切ない。ヒロインは、男尊女卑の伝統のなかでがんじがらめにされ、自分を表現することを一切許されず、そんな状況にじっと耐えるだけの寡黙な女として描かれる。夫が他に女を求めるのも、「借り腹」の役目をおとなしく演じるだけの妻に物足りなさを感じてのことかもしれない。夫は「愛」を求めて満たされぬ思いに鬱屈し、妻は「愛すること」の意味も分からず知ろうともしない。
こういう夫婦のあり方は、つい最近の日本でも存在した。韓国は儒教社会だからだろ、という図式的な解釈は成り立たない(DV夫の言うがままに、子供の虐待に手を貸す女性は、現在日本でも少なくない)。「女だから」「妻だから」「母親だから」と耐える女性は、21世紀になった今日でも、世界中に存在するはずだ。


その夫が、基地内で横暴な古兵と喧嘩騒ぎを起こし、懲罰でベトナムの激戦地に送られる。それを知った義母は、「私もベトナムに行く」と半狂乱。見かねたスニはつい「私が行きます」と言ってしまう。そう、彼女は、愛する夫を追いかけて戦地に行くわけではない。年老いた義母に従順に使える嫁の役目を果たそうとしただけなのだ。
とはいえ、どうしたらベトナムに行けるのだろう。世間知らずのスニは、とりあえずソウルへ行き、ベトナムに派遣される兵士の集合場所である基地に行く。門のところで警備兵に「ベトナムに行きたいんです」と訴えるが取り合ってくれない。途方にくれていると、警備兵が「慰問団に参加すれば?」と言ってくれた。さっそく慰問団の受付事務所にゆくが、芸能人でもなんでもない彼女の参加を認めてくれるはずもない。またも途方にくれていたところに現れたのが、バンドリーダーのジョンマン(チョン・ジニョン)だった。

ジョンマンは、ベトナムに慰問に行き、仲間の金をくすねて母国に舞い戻ってきた。新しいバンドを作ってソウルのナイトクラブで演奏していたが、またもトラブルを起こし、借金取りらしい男たちに追われている。窮したジョンマンは再びベトナムに渡ろうとするが、賄賂を使わなければビザを発行してくれない。しかも、バンドの女性ボーカリストが妊娠し「あんたの子だよ」と詰め寄られ、「てめえ、米兵とさんざん寝てるだろうが。誰の子だか、わかったもんじゃねえ」と妊婦を殴るジョンマン。最低な男だが、そんな彼の目の前にカモが現れた。金は持っているらしい。歌が好きなだけの素人だが、見た目もまあまあだ。こいつを歌手に仕立てて、とにかくベトナムへ。

かくて、スニは「スニ? 古くさい名前だな。じゃあサニーにしろ」と最低男から芸名を与えられ、バンドの一員として、念願かなってベトナムへ渡る。


さて、ベトナムに着いたものの、すぐ夫に会えるはずもない。夫はサイゴンのはるか北、北ベトナムとの国境に近い激戦地ホイアンにいる。一方、ジョンマンはサイゴンで仕事を探すが、前回のトラブルで信用を失った彼を雇ってくれるクラブはない。やっとこさ、米軍基地で演奏できることになるが、おどおどと棒立ちで、下手くそな発音でたどたどしく「スージーQ」(『地獄の黙示録』で米兵の慰問に派遣されたプレイメイトたちが歌っていた)を歌うスニに、米兵たちは容赦なくブーイングを浴びせる。途中でステージを逃げてしまったスニを平手打ちするジョンマン。とても夫を捜すどころの話じゃない。

進退窮まったバンド一同。屋台で昼飯を食いながら、メンバーの一人が提案する。「韓国軍の慰問にいくのはどうだ?」。「コネはあるのかよ」「だいたい、金になるのか?」と言い合うメンバーたちに、スニが口をはさむ。「韓国軍なら英語のポップスを歌わなくてすむし、ホイアンにもいけるわ」。ジョンマンは言下に「お前は口出しするな」。嫁ぎ先でも、サイゴンでも、スニは黙って言いなりになるしかない。
その時。
近くの米兵向けクラブが爆発する。潜入していたベトコンの少女が爆弾を仕掛けたのだ。スニの目の前で、米兵に射殺されるベトコンの少女。二人の眼があう。ベトコンの少女は、何かを訴えるようにスニを見つめる。不思議そうにベトコンの少女をのぞきこむスニ。

スニは、命がけで使命を果たしたベトコンの少女に何を見たのか。瀕死の彼女の表情から、何を受け取ったのか。
バンドの男たちは、ともかくトラックを買って、韓国軍部隊を片っ端から訪ねようとする。だが、有り金はたいても足りない。頭を抱える男たちのところに、スニが無言で現れ、何かを差し出す。彼女が故郷から持参した装飾品一式。彼女はこの映画で初めて、自分の意志を表明するのだ。

戦場で戦う兵士たち。彼らは好きこのんでベトナムに来たわけではない。だが、ベトコンの少女は違う。チェチェン独立派が、ロシア軍に家族を殺された少女をテロリストに仕立てるようなやり方の是非は、ここでは論じない。彼女たちは少なくとも、志願して命がけのテロを行った。スニの目の前で死んでいった少女がテロリストになった背景は説明されないが、その「覚悟」はしっかりと伝わった。「覚悟」を決めよう。



スニは、韓国軍の駐屯基地で、ステージに立った。緊張するスニに、兵士の一人が声をかける。「アンニョン・ハセヨー(こんにちは!)」。スニは小さく兵士に向かって手を振り、「アンニョン・ハセヨー」とささやくように返す。久しぶりに聞いた女性の母国語に、兵士たちは歓呼する。曲が始まる。自信なさげに小声で歌うスニ。だが兵士たちは、懐かしい演歌を大声で合唱し、踊り出す。子供にかえったような兵士たちを前に、こわばっていたスニの顔に笑みが浮かぶ。

バンドは、各地の韓国運駐屯地で公演を重ねる。ベトナム戦争での慰問公演というと、『地獄の黙示録』でプレイメイトたちのセクシーなステージに兵士たちが暴徒と化す場面を思い浮かべる人も多いだろう。明日をも知れぬ戦場で過酷な勤務につく兵士たちが、異性を前に狂暴化することは珍しくない。集団保存の本能にかられた兵士たちが女性を強姦する。古代から、昭和の南京事件、現在のイラク戦争に至るまで変わらない。
だが、この映画の男たちは、バンドメンバーも兵士たちも、スニをないがしろにすることはあっても、性の対象にはしない。スニはステージで、ビキニになったり、真っ赤なワンピースのミニスカートだったり、露出度の高いコスチュームを披露する。だが、そんなコスチュームで腰をくねらせても、彼女は決して「気品」を失わない。兵士たちは、母親のそばで安心して遊ぶ子供のように、戦場の憂さを晴らして踊り歌う。ひとつにはスエという女優のもつ侵しがたい「威厳」ゆえでもあるのだろうが、そればかりではない。スニは、自分の肉体を売り物にしようとはしていない。私は夫と会うために、ベトナムに来た。そのために、恥ずかしい格好でステージにあがっている。でも、そんな格好で私が歌えば、兵隊さんたちは喜んでくれる。無邪気に踊ってくれる。私に、そんな力があったなんて。大丈夫よ。私はやれる。きっと夫にも会える。そのためには、なんだってやる。いえ、やれるわ!
そんな彼女の「覚悟」が、男たちにとって手を出せない崇高な存在に高めているのだ。

多くの兵士たちに、束の間の安らぎを与えるスニ。メンバーたちは次第に彼女に敬意を払うようになってゆく。スニの仕草や表情にも、しだいに自信がみなぎってくる。

とはいえ、ここは戦場。ステージの最中、敵軍が襲撃してくる。銃火のなかを逃げまどうバンドメンバーたち。いったん、サイゴンに帰ろう。ジョンマンはそう言い出すが、スニは反対する。「ホイアンに行ってください。行かないなら歌いません」。冗談じゃない、死ぬぞ! だがスニは一歩も引かない。そんなスニに、あるメンバーが問う。「そんなにしてまで、なぜ旦那と会いたいんだ?」
スニは答えない。無言で小首を傾げ、うつむく。答えないのではなく、答えられないかのように。


ネットでの映画評を見ると、なぜヒロインが危険を顧みず(自分を愛してもいない横暴な)夫に会いに行こうとするのか分からない、と訝しがる声が目立つ。彼女の行動に共感できないのでのめりこめなかったという感想もある。
確かに、この映画では、スニの心情が台詞ではいっさい語られない。彼女は無口で、問われたことにしか答えない。しだいに自分の欲求を口に出すようになるが、その動機を説明したりはしない。
少なくとも、夫への「愛」ゆえでないことは確かだ。監督のイ・ジュニクは「初めから、人々(観客)には、平凡な愛の物語を期待しないでほしい」と言っている。脚本を書いたチェ・ソクファンは、「(一番監督と議論したのは)スニの感情だ。(彼女は)夫を愛していたのか、いったいなぜ戦場まで行くのかという話が多かった」「スニが夫を絶対に愛していないと考えながらシナリオを書いた」と語る。
では、彼女を突き動かしたものは何か。チェ・ソクファンは、それは「意地だ」と言う。では、彼女の「意地」とは何か。それについての説明はなく、観客の想像に委ねられている(参照)。
ヒロインを演じたスエはインタビューで、監督から「台本を見ずに現場に来い」と言われたそうだ(参照)。そして、ヒロインはなぜこんな行動に出るのかは告げられないまま、ただ「スニが置かれた状況」だけを説明したという。おそらく監督は、スエが脚本を読んで彼女なりにキャラクターを分析し、その動機をわかりやすく表現しようとするのを避けようとしたのだろう。
撮影に入る前のスエが動機を理解しないまま演技に入るように、スニもまた、その時であった「事件」や置かれた「状況」で、自分の動機を分析できないまま行動する。人間の行動は、言葉で動機を分析できるようなものではない。なぜ自分は夫に会うことにこだわるのか。義母のためか? 夫を愛しているからか? 夫に一言いってやりたいからか? そんな動機はどうでもいい。私は夫に会いに行く。そう決めた。そう決めた以上、誰かの言うままに諦めたくない。私は、私の意志で動きたい。私はもう、誰かの操り人形でも、ただの「借り腹」でもない。私は私だ!
そういった思いを、作り手たちは言葉で語らず、控えめな、それでいて雄弁なスエの表情だけで物語ろうとしたのだ。言葉で説明しないからこそ、スニの「覚悟」は胸を打つ。


(以下は、未見の方にはよんでほしくない)





彼女は、行く先々で、指揮官に訴える。「パク・サンギルに会いたい。会わせてください!」。指揮官を動かすために体を提供することも厭わないスニ。そして、彼女は夫との再会を果たす。
そこは、敵の大軍と激しい銃撃戦がかわされる最前線の塹壕。戦友を次々と失い、やむことのない銃火のなかで、今にも発狂しそうなサンギルの前に、スニが姿を現す。信じられないという表情のサンギルに、サニは平手打ちを喰わせる。
二度。三度。うつろな表情で平手打ちを受けるサンギルを見つめ、スニの顔に笑みが浮かぶ。いとしい人に会えた喜びでもなく、勝ち誇った笑顔でもない、ただ、何かを優しく包むような笑顔。
監督はこの場面を撮影する前、スエにこう指示を出した。
「反省なき20世紀に、一発かませろ!」

スニの平手打ちと、優しい微笑みに、サンギルの膝が崩れる。赦しを乞うようにスニの前に膝をつき、頭を垂れるサンギル。


20世紀は革命と戦争の世紀だった。男たちは「新しい社会はこうあるべきだ」と理想を掲げて戦い、そういう男たちの戦いでもうけを企む連中が開発した「最新鋭の武器」が一大産業となり、そしておびただしい死者を生み出した。多くの女たちが、夫や父や息子を失った悲しみにうちひしがれ、さらにその女たちにも大量の銃弾が浴びせられる。「正義」の名の下に繰り返される殺戮。だが、そんな殺し合いの中でも、女たちは子供を産み続けた。
ヒロインとバンドメンバーがベトコンに捕らえられる場面がある。暗いトンネルに潜み、米軍がくれば顔を出して銃撃を浴びせるベトコンたち。かつてぼくは、クチのベトコンのトンネル跡を見に行ったことがある。少女時代、米軍ヘリを撃墜したこともあるという老女が、お茶を出してくれた。狭いトンネルの中には、子供たちの教室もあれば、出産のための部屋もあった。一日じゅう日の光の差さない暗いトンネルで、子供たちは生まれ、ほのかなろうそくの光のもとで学ぶ。
極限状態にあっても、女たちは子供を産み続ける。その子供たちを、やがては「アメリカ帝国主義」を倒す戦士に育てるという目的があったとしても。



監督は言う。この映画で、女性らしさの偉大さを語りたかった。男たちは外に出ていく。外で浮気し、戦い、人を傷つけ、自らも傷つく。時には殺し合う。だが、男たちが外で愚かなことをやっても、人の世が維持されてきたのは、女性のおかげだ。私はフェミニズムについて深く考えたことはないが、この映画は、男らしさの弊害を通じて、女性らしさを考察した映画だ。自分の行動を正当化するために物理的な力を振るう男の卑怯さを見たかった。その卑怯さが、一人の女性の前で崩れる時、はじめて彼の中で真実が見えてくるはずだ。男性中心の社会が多くの悲劇を生んできた20世紀を反省し、同時にそんな男たちを許す、これはそういう映画だ……。(複数の発言からぼくなりに再構成してみた)


受け取りようによっては、男性が戦争を起こし女性は平和を愛するといった、浅薄なフェミニストの発言ととらえられても仕方がない。だが一方でこの映画は、信念から「敵」を殺すテロリストの少女をも描いている。テロリストの「覚悟」と、夫に会いたいというスニの「覚悟」が同列に描かれる。言葉にしてしまえば矛盾だらけの映画だが、ただ、スニを演じるスエの表情だけが、痛烈な何かを突き刺してくる。


「覚悟」を決めた女性にかなう者はない、と。





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