ケイト・ウィンスレットの母なる肉体……『レボリューショナリー・ロード』(2008年、米・英)

2008年 アメリカ・イギリス
監督=サム・メンデス 出演=レオナルド・ディカプリオケイト・ウィンスレット

ケイト・ウィンスレットが23歳のとき主演した「グッバイ・モロッコ」(1998年)という映画がある。二人の小さな子どもをつれ、北アフリカのモロッコで「自分探し」に右往左往するだけの若い母親を演じていた。それから10年後、33歳になったケイトはまたも、二人の子どもがいながら、「自分探し」をしつづけるだけならともかく、それを夫にも強要し、次第に追い詰められていく妻を演じた。
この作品は、超大作ロマン「タイタニック」で喝采を浴びた二人が再び共演というのが宣伝文句になっていたのだけれど、あいにく「タイタニック」を見ておらず、今後も見る気のないぼくにとっては、かつて二人の子どもを抱えて埃っぽいモロッコをうろうろしていた若き日のケイトが、閑静な郊外の住宅地でどんな「自分探し」を繰り広げるのか、そういう興味を抱いて見た。

「グッバイ・モロッコ」で一番印象に残ったのは、ケイト・ウィンスレットの肩幅の広さと二の腕の太さである。彼女が演じていたのは、異国で「自分探し」する人間の典型で、男にすがる他は何もできない女性だ。かつての夫からの仕送りに頼って生活しており、仕送りが絶えると、結局地元の男と一緒になるしかない。そんな何もできない女性だが、とにかく、小さな娘二人を同時に抱えて走れそうな、たくましい身体だけは持っている。足腰も強そうだ。ヌードも披露していて結構胸が大きいのだが、セクシーというより、「たくさん母乳が出そうですね」というイメージを抱かせる。あえて言えば、赤ん坊背負って畑を耕していそうな、農婦型の体型なのだ。それでいて、整った品のある顔だち。淑女の顔と農婦の身体。この矛盾が、ケイト・ウィンスレットという女優の持ち味だと思っている。

さて、「レボリューショナリー・ロード」である。
女優志望の若きケイトは、ニューヨークのお洒落なバーで、港湾労働者と名乗るレオナルド・ディカプリオと出会う。レオの父親は地道なサラリーマン。そんな父親を嫌って夢を追い続けている。「将来なんてわかってしまったら退屈なだけじゃないか」「俺は、他の平凡なやつらとは違うのさ」とうそぶく彼に、ケイトはたちまち夢中。それから数年。レオはあんなに毛嫌いしていたサラリーマンになり、満員電車に揺られて会社に通う毎日。ケイトは郊外の家でひとり専業主婦しながら不満を抱えてくすぶっている。
そんなケイトの不満を、レオはなかなか理解できない。
映画は、ケイトがアマチュア劇団を立ち上げ、その初舞台のシーンから始まる。舞台が終わった後、ひとり楽屋で落ち込むケイト。公園が失敗したのは明らかだ。そんなケイトをレオは慰める。「ちゃんと演技ができるのは君一人だけだった。他の劇団員がひどすぎた」と、失敗の原因を分析してみせる。君は悪くない。責任は他の連中にあるんだというわけだ。ケイトは夫の慰めに耳を貸さず、苛立ちを募らせ、ついに爆発する。「何も言わないで!」
この夫婦の悲劇は、夫は妻の苛立ちを理解できず、妻は夫に自分の苛立ちを説明できないことにある。レオが演ずるサラリーマンは、ディカプリオの童顔とあいまって、すごく薄っぺらな男という印象だ。彼は彼なりに、妻の不満を理解しようと努める。なぜ君は苛立っているのか。その理由はこうだ。だからこうすれば解決する。そんなレオをケイトは、「もういいわ、黙ってて!」と拒絶し、ついには「触らないで!」「こっちに来ないで!」となる。
ケイトの不満は、分かりきっている。女優を目差していた彼女は、レオとの間に子どもができたため、夢を断念した。夢を断念しつつも、専業主婦や二児の母という現実を受け入れる決心がつかない。一方のレオは、とっくにサラリーマンとして妻子を養うよき父という現実に安住している(かのように見える)。それなりの地位を築き、OLとささやかな不倫も味わい、有望な新規事業に参加するよう上司から誘われた。レオには新たな展望がある。自分にはない。ただ老いていくだけ。わが子の成長を楽しみにすることもできない。なぜなら、子どもは、女優になりたいという夢を断念させた原因でもあるからだ。そしてなぜ、子どもが生まれたか。あの男のせいだ!
独り怨念を募らせ、次第に狂気を帯びていくケイトの演技はすばらしい。そんな妻に、彼なりに誠実に対処しようとするレオは、誠実になろうとすればするほど、彼の想像力のなさ、つまらなさが浮き彫りになる。浮き彫りになればなるほど、それでも一生懸命なレオが、しだいに同情すべき存在に見えてくる(たとえば、一緒に見ていたぼくの妻は、ケイトは「怖い」、レオは「かわいそう」と言っていた)。この映画、ケイト・ウィンスレットが原作を気に入り、長年映画化の構想を暖めていたのだそうだ。時間をかけてレオナルド・ディカプリオの出演を口説いたのも彼女自身。監督は彼女の夫であるサム・メンデスだ。前述の「グッバイ・モロッコ」も彼女が原作を読んで出演を熱望していたそうだ。彼女自身、「自分探しを続ける女性」に共感みたいなものを抱いているのだろうか。ケイトは二度結婚し、それぞれの相手との間に一児ずつをもうけているらしいのだが。

閑話休題
夫婦の軋轢はこじれにこじれ、ついにケイトは家を飛び出す。もうどうしていいか分からないレオは、追いかけていく気にもならない。ひとりベッドで過ごし、一晩あけて寝室を出ると、ケイトはエプロンをかけ、台所で朝御飯の仕事をしている。驚くレオに、ケイトは何もなかったような顔で、「スクランブルエッグにする? それともベーコンエッグ?」と訊ねる。
このシーンは怖い。
フライパンで卵をいためるケイトのたくましい二の腕や、広い背中。まさに炊事や洗濯、そして育児と、それなりに体力を要求される専業主婦向きの身体。その身体を使って朝御飯を作るケイトの姿は、本当に彼女が向いているポジションはそこにしかないであろうことを暗示しているからだ

もう一度、ケイトの抱える不満に戻る。彼女は、女優になりたかった。なれなかったのは、レオとの間に子どもを作ってしまったからではない。彼女にそんな才能はなかったからだ。そして、そんな才能もなければ、石にかじりついても女優として成功したいという野心も、彼女には欠けていた。そしてそのことを、彼女は十分に知っていた
だから、ケイトは唐突に言い出すのだ。「パリに行きましょう。私、働くわ。だから、あなたはあなたの夢をそこで見つけて」。自分はもう、夢を追い求めることはできない。だから、せめて夫のレオには、つまらないサラリーマンなんかに安住してほしくない。自分の夢を、夫に託したい。だから、夫がそういう自分の夢に付き合ってくれそうにないことが分かったとき、憎しみが爆発するのだ。
こんな私にしたのは誰! あんたでしょ!
八つ当たりである。

こうなったら、もはや男にはどうすることもできない。その後、ケイトはますます暴走し、あわれなレオは二人の子どもとともに取り残される。公園のブランコで遊ぶ娘二人を寂しげに見つめるレオの表情が印象的だ。そんな彼の将来を暗示する老人が出てくる。
レオとケイトの近所に、精神疾患の息子を抱える老夫婦が登場する。妻のほうは、息子が一人前でない悲しみから逃避するためか、レオとケイトを「素敵な若夫婦」と必要以上に持ち上げる。そんな妻を見つめる無口な夫。彼はいつも分厚い眼鏡をかけ、ほとんど台詞もない。だが、すべての物語が嵐のように過ぎ去ったあと、老人は眼鏡を外して素顔を見せ、曖昧な笑みを浮かべ、そして映画は終わる。
老人を演じているのはリチャード・イーストンという舞台を中心に活躍していた老優。ケネス・ブラナーが監督主演した映画「ヘンリー五世」(1989年)で、フランス軍の司令官を演じていた。鼻の大きい貴族的な風貌の人だが、まさに人生のすべてを諦め、悟りきったような一瞬の表情が素晴らしい。

人生の行き着く果ての理想が、この老人のような笑顔を浮かべられるようになることなのかどうか、今のぼくには分からない。