仲間と友人のあいだ……『子猫をお願い』(2001年、韓国)

2001年 韓国
監督=チョン・ジェウン 出演=ペ・ドゥナ イ・ヨウォン オク・チヨン


犬を喰ったり、生きてるタコを躍り食いする映画ばかり続けて見たので、お口直し第二弾に、おそらく韓国でもっともガーリーな映画を見た。韓国では(日本もそうだが)まだ珍しい女流監督による作品で、公開年(2001年)、韓国女性が選ぶ最高の韓国映画第1位にも選ばれたという。
韓国映画といえば、再三書いたけれど、ぼくの苦手の人工的美人。なんでも韓国では、映画は男性が見るもの、テレビドラマは女性向けと分担が決まっていて、映画はどうしても男性目線になる。自然、女優さんには、女性から見て等身大で共感できるタイプより、男性がぽーっと見とれるような美貌が求められるのかもしれない(例外は、わがぺ・ドゥナさまなんだが、本国での彼女の評価は、批評家受けはするけれど大衆動員力はない、というもののようだ)。
その意味で、等身大の若い女性5人の、それぞれの悩みや心の揺れ動きを、女性監督ならではの繊細な目線で描いたこの作品は、韓国では珍しいらしい。興行的には伸びず、はやばやと打ち切られたが、熱心なファンや批評家の再上映運動が展開されたという。

映画の舞台は仁川(インチョン)。韓国第三の人口(270万人)を持つ港湾都市で、ソウルまでは高速バスで好いていれば20〜30分ほどの距離。かつて朝鮮戦争の時、マッカーサーが米軍を率いてこの地に奇襲上陸作戦を仕掛け、優勢だった北朝鮮軍を押し戻したという土地でもある。
現在は国際空港があり、いわば外に向かって開かれた玄関だ。この映画では、ちょうど空港が完成したばかりの時期であり、どちらかというと、船で出稼ぎにやってくる地方出身者や外国人労働者が出入りする、かつての横須賀にちょっと似た、殺伐とした雰囲気漂う場所として設定されている。
そして、外に向かって開かれた場所にもかかわらず、主人公たちを取り巻く一種の閉塞感。このコントラストが鮮やかだ。ちょうど1997年のアジア通貨危機による経済低迷から立ち直れない時期だ。商業高校を出ただけの彼女らの未来は、決して明るくはない。

映画が始まるや、仁川港の波止場、高校の制服姿ではしゃぐ5人の姿が映し出される。子犬がじゃれあうように、体をぶつけあい、声を合わせて歌い、記念写真を撮る。誰が誰だかよく分からない、きわめて記号的な女子高生描写。もちろんそれは、タイトルクレジットが出た後、すなわち5人が学校を卒業し、それぞれの道を歩み始めてからのキャラ描写と対照させるための演出なのだということは、すぐに分かる。

同質性を強調したオープニングに続いて、5人の女の子のその後が、一人ずつ描かれる。この手の集団劇では、5人のキャラクターの描き分けが重要になるが、そのあたりは、図式的といってもいいくらい、ビジュアル的にもわかりやすいキャラ設定だ。


まず、いかにも韓流美人のへジュ(イ・ヨウォン)。5人のなかでただ一人、ソウルに出て、大手証券会社に勤めている。元モデルというだけあって、すらりとした長身。黒いスーツにタイトスカートがよく似合い、会社のエリート男性からしきりに食事に誘われる「職場の花」。とはいえ、日本以上の学歴社会である韓国、商業高校出の彼女は、かつての言い方でいえば「総合職」。雑用係にすぎない。







へジュと対極にあるのが、ジヨン(オク・チヨン)。両親をなくし、仁川の貧民街に祖父母と住んでいる。せっかく就職した工場は倒産し、再就職のあてもない。友達の前では弾けるような笑顔を見せるが、ふだんは、いかにも幸薄そうな顔立ちを能面のように固くし、うつむき加減に歩いている。絵を描くことが大好きだが、画家になるための学校へ行く余裕なんかない。








いちばんたくましそうなのはチャイナタウンの路上でアクセサリーを売っている中国系の双子姉妹。彼女らのバックグラウンドは特に描かれないが、華僑らしく、性根を据えて土地に根をおろしている。








そして、わがぺ・ドゥナ演じるテヒ。映画前半の彼女は、五人の友情をつなぎ止めようと誕生日会を催して幹事を務めたり、体に障害を持つ詩人の口述筆記のボランティアをしたり、素直な世話好きのように見える。正直、ビジュアル的にもキャラのたった他の四人に比べ、影が薄い。ぺ・ドゥナという女優は、ここはその他大勢でいるべきという場面になると、平然とその他大勢でいられる人だ。個性的な他の四人をきちんと引き立てているが、その実、彼女がもっとも主人公に相応しい、一筋縄ではいかないキャラクターだということが、次第に明らかになっていく。

テヒは、市内でサウナを営む一家の長女。父親は典型的な家父長型の韓国男。一家の後継者である弟をかわいがり、就職もせず(できず?)ぶらぶらしているテヒは、家業を手伝ってはいても、家のなかに居場所がない。船員募集の看板を見て事務所に飛び込むが「男だけだよ」と断られる。ぺ・ドゥナいわく「頭のねじが一本外れた」ような女の子。そう、『ほえる犬は噛まない』で演じた日常に不満たらたらな団地の管理職員と共通するキャラだ。彼女が、学校時代の仲間との関係を大事にするのも、生来世話好きだからではなく、自分の居場所を確保しておきたいという不安の現れのようにさえ見える。

やがて、五人の亀裂が露わになっていく。へジュの誕生日、他の友人は口紅や下着をプレゼントするが、お金のないジヨンが贈ったのは、道ばたで拾った子猫だった。最初は喜んだふりをするへジュだが、翌日、「忙しくて飼えない」と突き返す。お金を借りて返さないジヨンに対し、へジュは高飛車な態度をとるようになる。自分が大都会ソウルの大手企業に勤める「勝ち組」だということを、ことさら強調する。そんなへジュにジヨンは嫌悪感をあからさまにし、間にはいったテヒはなんとか二人の仲を修復しようと右往左往する。

へジュ自身も深い葛藤を抱えていた。会社での出世はまず望めない。「職場の花」の地位も、新しく可愛い女の子が入ってきたら、そっちに奪われる。彼女は、昔の仲間とのつながりを失うことをおそれている。彼女が「勝ち組」でいられるのは、昔の仲間といるときだけだからだ。それが分かっているからなおさら、彼女は高飛車な態度をとる。悪循環のなかで、彼女は孤独に沈んでゆく。

実のところ、勝ち組であるかのようなへジュは、両親が離婚し、都会で独り暮らしだ。両親を亡くしたジヨンと同様、寂しさを抱えて生きている。二人が本音で話し合うような機会があれば、互いの寂しさを理解できたはずだ。だが、ひたすら明るく振る舞うことで繋がっていた「仲良し五人組」のなかで、盛り上がりに水をさすようなことを言えるはずもない。

映画の途中、ジヨンの家を訪ねたテヒが、あまりに貧しい環境なのにとまどう場面がある。誰一人、ジヨンの境遇を知らなかったのだ。ただ、群れていたいという本能から、同じように声をはりあげてはしゃいでいただけではなかったか。二人は、女たちが夜遅くまで働いている水産加工工場の側で、並んでタバコを吸いながら、初めて本音で語り合う。貧しい家計を助けるため、冷たい水で手を荒らす工場の女たちは、未来の二人かもしれない。学歴も展望も特技もない私たち。「オーストラリアにワーキングホリデーってあるの、知ってる?」テヒは言う。「仕事をしながら、いろいろ学べるみたいよ。

そのジヨンは、祖父母が老朽化した家の下敷きになって亡くなるという悲劇に見舞われる。なぜ私だけがこんな目に……。彼女は誰にも口をきかなくなる。警察の事情聴衆の際にも沈黙を貫いたため、あらぬ疑いを抱かれ、少年院に拘置される。そんな彼女の力になりたいと、拘置所に面会に行くテヒ。「私、どこにも行くところがない。少年院にいるほうがましよ」と呟くジヨンに、テヒは携帯メールで受け取ったへジュからのメッセージを見せる。
「忙しくて面会にいけないけど。よろしくね」
そっけない文面。へジュは、そのそっけなさに、追い詰められている自分の感情をこめようとした。あんたと仲直りなんかできない。あんたは、確かにかわいそうだけど、私のことなんか全然理解しようとしなかったじゃない。私だって、いろいろ悩んでるんだから! 貧しいからかわいそうってわけじゃないのよ! 自分がかわいそうだからって、人の気持ちを傷つけていいわけじゃないのよ! 私のことわかってよ……!
そんなへジュの感情をジヨンが受け止められたかどうかは、分からない。ただ、そのメッセージを、面会室の金網越しに見せるテヒに、ジヨンのこわばった心が慰められなかったはずがない。


拘置所を出たジヨンを、テヒは出迎える。その足で二人は、空港に行く。彼らがどこに旅立とうとしているのか、映画は一切描かない。二人はわざとらしい冗談ではしゃぐこともせず、まっすぐ前を向いて歩いていく。彼女らが自立を果たせるかどうかは分からないが、少なくとも、生涯続く友情を手に入れたことは間違いないだろう。








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